梅の木:ネオ・ジャポニズム

前書

 ジブリアニメ「ハウルの動く城」のソフィーをご存じだろうか。
 「モノノ怪」的には、橋本氏が参加された作品としてご存じかもしれない。呪いでヒドイ目にあうヒロインだ。
 独りぼっち、老婆の姿にされてしまったとゆうのに、彼女は一晩もたつと「おばあちゃん」になりきり、生き生きと暮らしはじめる。
 彼女の性格が「老成している」表現なのだろうけど、いくら何でも馴染むの早すぎ、落ち込まなすぎじゃないの?と思う。同じような戸惑いの声を当時の感想にも見かけた思い出がある。

 父の遺した店を継ぐ責任感から、ソフィーは受身一辺倒に生きてきた少女である。
 ところが老婆になったとたん、むしろ若返ったように、人生に積極的になる。
 ペルソナの力を「借りた」ソフィーは、肝っ玉かあさんの器にめざめる。相手を労わったり立てたりしながら、思い通りに動かしていく。もともと統率力に優れていたのである。

 他人を動かす能力とは、演技力に尽きる。
 上手な嘘のつき方というより、真実の上手な見せ方といった方がよい。弱さも限界もさらけ出し、納得させる。本音がみえみえだって構わない。
 要は、「まとわねばならぬ空気とか、カオというもの」に、いかに信憑性を持たせるか、だ。

 「オモテに現れている形」の、特長──可愛かったりよぼよぼだったり、傷があったりする見た目。
 それだけでなく、雰囲気、仕草、見る位置や人によって、時間や照らす明かりによって、また相互の気分等によっても変わる──そうした、自身の側面、一面。
 (見る場所によって、姿の違うモノノ怪───そんなのもいますよね。)
 己の 「カオ」 は自分で決めるものであり、他者が決めるものでもある。

 生きて暮らし、経験を積んでいくうちに、さまざまな側面を培い、複雑な「内面」が、人の中で形成される。
 いつしか、自身の「内面」に尋ね、「面」と語らい、まるで他人にものを頼むように「面」に頼み、任すようになる。大人とは良くも悪くもそういう生き物だ。

 さて少女ソフィーに被せられたペルソナは「老人のような心」であった。外見の変化は、思い込みが外にでるといった幻影に過ぎなかった。しかし同じペルソナは、ソフィーの心の中に最初からあったのだ。
 突然他者からペルソナを被されることで、責任から逆に解放され、ソフィーのヤル気に猛然と火がつく。
 しかし、体が老いた(動かない)と思い込んでいる間、何をするにも他人の手を借りるほかない現実───この自覚が、意固地になりがちな彼女を、限りなく素直にもする。

 そしてハウルとの恋を意識した時、荒地の魔女でなく自分自身のペルソナ、本当の“呪い”と向き合う。そしたらいつのまにか魔法はとけてしまった。
 完全である必要はない。向き合うだけでよかったのだ。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−*

 「海坊主解」は長すぎた。今回、本文はできる限りシンプルな解釈を心がけた。

 <のっぺらぼう>=お蝶=敦盛 (≠薬売り)
 以上。

 終わってしまったので、以下は興味のある方だけ読まれるとよい。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−*

 もう少しお付き合いいただけるなら、先へ読み進む前に、あと2、3の前置きを。

 まず。私の解釈の出発点は、「敦盛は古い屏風かどこかから出たアヤカシで、お蝶は実は母親を殺してる」だった。今は多少理解できたのか?ううむ…
 補遺以下の付記は、本文中で逐次参照されたい。

 この解が気に入っても入らなくても───あるいは一応ここまで読んでみたけどやっぱりめんどくさい、でもかまわない。
 読んでくださって有り難うございました。

 決して終わりの無い問い、至高の贈り物が、物語には込められている。まるでフェルメールの絵画のように。
 ラスト、町から山へ、そして空へと続く視界がある。
 家屋のひとつひとつ、木のひと枝ひと枝、鳥の一声一声に、それぞれの物語がある。
 互いにこだましあい、響き合っている。
 私たちは、限りなく掴むことができる。
 「のっぺらぼう」は贈り物だ。「モノノ怪」ぜんぶがそうなのだが。

狐面:万華鏡

敦盛

 敦盛は、お蝶さんの夢から生まれた。他に関与した「何か」はない。
 薬売りに「滅」されるまで、ほんの刹那、存在したアヤカシ。

 アヤカシ(妖怪)というと、何だか時代に関係なく出たり、居たり、逢えたりする(ことになっている)ので、漠然と長生きのイメージを抱いていたが、この敦盛のように、場を得て顕れては、場の消失と共に儚く消える存在が、本来アヤカシなのかもしれない、と思った。
 ふとみかけたとき、ふっと笑顔になれる。その視線の先にある何かの姿の、エスキースみたいな存在。

 最初はきっと、夢の中のぼんやりとしたイメージでしかなかった。
 その姿に、モノノ怪が<面>を与え、家に縛り付けるために、お蝶を騙す道具とした。
 (この、人を道具とする考えは、「お蝶の母親」のやり方にそっくりだ。)

 かりそめの体を得て、お蝶と異なる時空を閉める存在となった。お蝶の記憶を受け継ぎ(そのぶん、お蝶は記憶を失った)、お蝶の心を守り続けた。
 ずっと守り続けた。他者として。

 モノノ怪がお蝶から取り上げた、ものを考えたり、判断する力を備えた敦盛。
 お蝶の心を守るため、いろいろ工夫しつづけているうちに、もとのお蝶とは異なる経験と記憶が、敦盛の中にだけ、蓄積されてゆく。
 それはわずかな差異。しかし顕かな差異である。また、この差異は、根底でお蝶と繋がっている敦盛から、お蝶自身へとフィードバックされてゆく。
 ほんのわずかな差異である。だがたしかにあったこと。

 薬売りが現れたことで、お蝶に変化が訪れる。それを受けて、敦盛もまた自らを変化させる。

 「お蝶さん、俺と一緒になってくれ!」

 それは、もともとひとつであったもの、モノノ怪が引き離したものが、おのずと再び、ひとつになろうとする意志。
 しかし、敦盛はお蝶と異なる時空を占め、異なる眼でものを見ていた。

* * *

───想い…思い出。私だけの胸の内にあるもの

 敦盛は、お蝶の胸の内だけにあった。その姿を否定することは、他者にはできない。

 妄想とはそういう性質を帯びている。『心のうちが問題なれば…』
 人の認識、「胸の内」における、客観的に判定できない内部現実=「想い、思い出」について、他者は訂正不可能である。

───同じ時を過ごそうと、同じ景色を見ようと、
───私と貴方の胸の内にあるものは、決して同じではなく
───貴方の姿、貴方の声、私だけの胸の内にある、貴方

 敦盛について、お蝶は差異(たとえば、男と女)のみを認識している。
 お蝶にとって、敦盛は紛れもなく他者であった。
 そして、かくあれと想像され、創造された、敦盛もまた。

 異なるふたりだったから、結婚という発想が生まれた。
 お蝶が出来ない発想を、敦盛は「自分なりに」考え、提示する事が出来た。

 そして異なるふたりだったからこそ「婚礼」はおじゃんになった。武家以外の、市井の徒に嫁ぐことはモノノ怪───お蝶自身が決して許せぬことだった。

───貴方は、誰?

 敦盛はお蝶さんの夢から生まれ、ほんの刹那に存在したアヤカシ。
 ほんとうのところ、彼が何の由来であっても、お蝶に憑いたアヤカシならば、一部はお蝶であることに、なんら変わりはない。
 彼をお蝶の人格の、ある側面と考えると、とてもすっきりする。

 夢は人生の動力源であり、牽引役であり、人生のさまざまな局面における、調停役でもある。
 夢を見て、人は動き、どこかを目指して進むことが出来る。夢を見つづけるために、さまざまなやっかいごとと、何とか折り合いつけてやっていこうと考える。夢とは、来るべき未来のヴィジョンなのだ。希望に満ちて明るいばかりではない。夢を維持するのは辛く苦しい連続でもある。

 敦盛は、お蝶の辛く苦しい部分と、真正面から向き合う心だった。誰でもない、己自身だからこそ、あれほど真剣に戦ったのだ。

 だからといって、他者としての敦盛が感じていた熱い心は、無くならない。
 というより、実在は関係ないのである。「胸の内」では。認識、記憶とはもともと曖昧なものなのだ。

   ───そう、<敦盛>にとっての、お蝶とは。

* * *

 何かが残った。お蝶の中では、敦盛はちょっとだけ成長した自分の心として刻まれるのだろう。
 敦盛はお蝶の妄想から生まれた、憧憬的な偏愛であったのか。心理学的には、そう言えるのかもしれない。

 敦盛の姿に込めた願望は、理想の夫、話を聞いてくれる、理想の他者の姿だった。彼女は理想の自分を思い描くことができなかった。敦盛に、「自由を実現する」イメージを与えることさえ出来なかった。だからこそ悲劇的、喜劇的。
 自己愛が表出しているとしたら、それが敦盛だろう。敦盛がお蝶を愛するのは自己愛といえる。しかし…

 つかのまとはいえ、それぞれに認識と記憶を有した、お蝶と敦盛が、居た。
 分離している間の、お蝶を、ひとりの存在と認めるなら、敦盛もまた、ひとつの存在といえるのではないか。
 記憶や経験を共有する瞬間は、ひとりの人間からわかれた二つの精神にも、ふたりの人間にも同じように起きる。認識の深淵に降りた時、この違いは、どこにあるのか。このつながりを、どう捉えればよいか。

 敦盛がたしかにいたと証明するのは、薬売りの手の中の煙管か。
 私自身は、敦盛のせつなさは壮絶だと思う。武勇伝の壮絶さとはちがうが、やはり壮絶な“一生”といえるのではないか。

薬売り

 退魔の剣にいざなわれ、薬売りが訪ねる先は、自分を罪人だと思い込む、妙な女の家。
 <脳内評定(ひょうじょう)>→死罪、さては死亡フラグか、こりゃ急務、と、深層心理に飛び込んでみたら、当の女は屁理屈をこねて逃げ回る。おまけにヘンなアヤカシまでしゃしゃり出る始末。

 あやつがモノノ怪の「形」と思いきやさにあらず。しょうがないから一旦退いて様子をみれば、何のことはないすべてが「いつもの」独り芝居。
 とはいえ、狂言を仕組んでいるのはモノノ怪。これは、斬らねばならぬ。

 薬売りは、事件への介入当初、モノノ怪=敦盛であり、まだ判明しない真と理によってお蝶にとり憑き、心身を操っているものと考えていた。
 (「めざしの喩え」解釈は、付記その1−1へ)

 乗っ取られているわりには、お蝶は頭も口もほんとよく回る。
 二人のやりとりはまるで「剣でなく口で行うフェンシング」。肉体バトルの死闘に勝るとも劣らぬ弁舌の鍔迫り合いである。
 互いに一歩も相譲らず、ついに薬売りがお蝶に、先に言質をとられてしまう。
 (『どうせ死罪なんでしょ』『まるで別人だ、普段のお蝶さんと』…特に後者は、薬売りのとんだうっかり発言だ)
 自らを罪人と思い込む、これは自分に対する虚偽である。しかし、お蝶にはとり憑かれた人らしい悲愴さがない。
 「明日、死罪になる者がまとっているカオではない」つまりモノノ怪によって、『悩め〜〜もっと苦しめ〜〜もっと恨めもっと憎め〜〜』のようなコンボに陥っていない。(源慧を思い出してみよう。)

 「錠」をものともせず、勝手知ったるとばかりに侵入してきた謎のアヤカシ?、敦盛。
 退魔の剣は奴を「モノノ怪の『形』ではナイ」と。

 どうやら敦盛とお蝶の因縁は、心の錠が無意味なほどに深い。しかしモノノ怪が「在る」のに、敦盛でないとすれば、残るはさらなるお蝶の中に。だが彼女は全く自覚無し。「こいつは、少々やっかいですよ」

 己に対する強力な虚偽と、お蝶を「操ろうとする」敦盛、その敦盛を「邪魔する」お蝶の「母親」。
 何だこれは。
 敦盛はあきらかにモノノ怪の手先。
 お蝶に妙な思い込みを植え付けている。
 二人の芝居を見ていると、敦盛ははじめ、「あの場所」へ戻るよう、お蝶をうながす。しかし拒絶されると、ひどくうろたえる。想定外の回答だったようだ。

 代案がなんと───「プロポーズ」。モノノ怪と、憑かれた人間は、既に強力につながった「共同体」だというのに。一体、アヤツのどこから結婚などという妙な発想がまろび出た?お蝶の願望?それならまあ辻褄が合う。どのみち、敦盛を操るのはお蝶(の中のモノノ怪)なのである。

 だがその「婚礼」はお蝶の母のイメージによって否定される。自分の自由な願望を、母は望まぬだろう、という諦めがお蝶にはある。
 自分の幸せは自分で決めるものだ。モノノ怪にやつして無意味な夢を見、それを叶えようとしながらいざという段になって、母が許さぬからそれはできない、とは。
 今のお蝶は、行動も決断も、「他人任せ」になっている。
 「いい加減になさい。オモテを忘れたモノノ怪、姿を顕わせ!」
 こうして薬売りは、モノノ怪の名を知る。

 厳密に言えば、彼らはイメージであって誰一人他人ではない。自己決定が、心の中で他者の賛否のかたちをとるのは別におかしなことではないと思う。もし誰々がここにいたら、きっとこう言うだろう、それを判断基準にすることは、ごく普通にあること。
お蝶は「あのかたがこう言ってくださるから結婚しましょう…母上様がお許しにならないからできない…」と、決定そのものを他人のせいにしている。自分で下した決定をあたかも他人の指示であるように思い込むから、自分の「本心」との間に「歪み」が生じてしまう。
 すべてが自分の意志の下にあることを、彼女は気づかなくてはならない。不条理に立ち向かえるのは、その後である。

 退魔の剣が鳴り、形が顕れた後でさえ、あくまでも理屈に頼って逃げ回るモノノ怪を、薬売りは周到な理詰めで追い込んでいく。すべてが渾然一体となった精神の内部で、こんぐらがった糸の束のただ一本を斬らねばならない。
 その一本の糸とはお蝶の気づきである。向き合うだけでよいのだ。

 薬売りはお蝶の苦しみをそのまま再現し、「甘え」について説き、彼女の本心を尋ねる。自身の心を手放すさまを突きつけ、<鬼面>を被った母親に向き合わせ、さらに本心を尋ねる。「道具」と呼ばわり怒らせて感情を鼓舞し、敦盛の真実をあばいて見せ、さらに本心を、尋ねる。
 そうまでして本心を尋ね、忘れていた感情を蘇らせる。偽り、隠し、忘れていた感情こそ彼女の本心、殺していた、心。

 敦盛に向けた破邪の鏡を、お蝶にも向ければ話は早い、かもしれない。だが、既に自分を自分とわからないほど心がバラバラになったお蝶の真実を写し出したところで、彼女は信じまい。
 これでも、薬売りは介入を最小限に留めた、のだと思う。
 お蝶さんに取り憑いていたモノノ怪は、お蝶さんが己の内側に、存在を自覚したときに、自然に消えていった。
 ところで、薬売りのこの執拗な問い方、どこかできいた覚えが?───『お前の本当に恐ろしいものは、何だぁ』そう、お蝶は本心をタブーに押し込め、忘れていた。
 向き合うだけで、よかったのだ。
 たしかにハイパーは退魔の剣を揮いはしたのだろうが、見方を変えれば「滅」と言えなくもない程度、だと思う。

* * *

 お蝶と薬売りが残った空間。しかし、薬売りはハイパーと<通常版>に分かれている。
 ふたつの姿をしているのは、精神世界ゆえの重なりなのか、それとも、彼自身がお蝶に対して相異なるふたつの思い、二様の捉え方を持っていた、ということなのか?
 あるいは彼もまた、お蝶の改革意志、そのものだったのではないか?敦盛をお蝶の夢とするなら?

 敦盛は、煙管を握る手を持っていた。薬売りの手が、剣を掴むように。
 最後に、誰もいない台所で、友人に対する親しみを込めて煙管をとり、その心を恋と呼ぶ。煙のように儚い、と知りながら。

 「哀しき、モノノ怪だ」

 家には誰も居ない。お蝶を引き止める者は、もう誰も。薬売りもまた同じ。

お蝶

 お蝶さんにとって、敦盛は最後まで「他者」であり続けた。
 二人の出会いのシーン、敦盛が屋外からすうっと現れ、家に近づいていく。
 お蝶にとっては、彼は他者でなければならなかった。
 欺いたのは、モノノ怪。

 ところが、敦盛のトンでもない提案で、モノノ怪は二人の夢を、みずから邪魔しなくてはならない羽目に陥り、薬売りにシッポをつかまれた。
 夢(=意志・行動力)である敦盛と、実践論理(=判断力)であるお蝶が結びつくのは、人格再統合への第一歩。本来ひとつのものであった人格をバラバラに壊し、自分の目的に沿うよう都合良く操っていたモノノ怪にとって、絶対に阻止しなければならないエポックであった。それがモノノ怪の命取りとなった皮肉。

 夢見がちで、内に篭もる性格の少女が、子どもらしい自由な時間、自由な表現を、保守的で権威主義の母親に奪われた。大人の傀儡として、過剰な責任を負わされ、忍従だけを唯一の美徳と教え込まれて、意に染まぬ結婚を強いられた───

 なぜ、逃げなかった?薬売りが問う。

 人間は、人間の手足を、触れもせずに、削ぐことができる。大人のように、男のように、月代を剃られた、幼少のお蝶。逆らうことも、逃げることも覚える暇は無かった。
 が。

 お蝶は利口な子どもだった。教わりもせずに、自分なりの逃げ道を考えついた。
 夢。
 夢幻の世界では、自由に羽ばたくことができた。お蝶は夢見る力の強い子供だった。
 夢で自由に遊びながら、母親の前では理想的に振舞うことができた。

 子どもの中には先鞭をつけてやったほうが後年まで倖せな子もいる。お蝶はそういうタイプではなかった。
 座敷童子の子らを思い出そう。子は親を選ばない。
 母親は娘をことのほか寿いだ。
 理解していたから、娘は逆らわなかった。
 お蝶はなにもできなかった。グチを言いたくても言えなかった。結婚してからもダンナや姑の悪口を母親にぶちまけることもできなかった。世の中にはグチりあう母娘などゴマンといるのだが。
 誰が一番悪かったのか。他者である我々に断定は不可能である。
 『母上様は聞いてくださらないだろう』そこで止まってしまったのは、たしかだ。

 誰にも言えない辛さ、ストレスを、お蝶は空を見上げて夢を思い描いて、忘れようとした。
 夢見る力はますます強くなった。

 夢の世界には、幻の鞠をついて遊ぶお蝶。現実には、母親に従って理想の自分を演じるお蝶。
 お蝶の心は現実から遊離していく。
 あるべき場所、自分の『城』───“体”から出ていってしまう。

 空っぽの体を支配したのは、モノノ怪。
 否、モノノ怪が、お蝶の心を追い出し、棲みついた。
 どう表現しようと同じこと。彼女自身がしたことなのだ。

 「母の願いのために、自分の心を失くし、母の願いのために、自らを道具と化した貴方が、恋をした。
 だが、その恋をした相手は、誰だ」

後継ぎをつくらねばならないプレッシャーが、彼女を追いつめたのは確かだ。薬売りの訪れは、彼女の精神が極限であったことを示すのだろうか?

 「私は、母上様が、好きでした…」

 しかし。
 彼女は母の分身ではない。母には似てない。小さい頃からわかりきっていた。

 気づくだけで良い。悩むことも無い。育ててくれた感謝も愛情も失うこともなく、オトナになったお蝶はすべてに手が届く背丈になっている。

 「ばっかみたい」

** ループ **

ストレス→空を見る→ナタが渡され→「すっきり」→ショック、罪意識→「牢に入らなくちゃ、当然死罪だわ」→敦盛が牢破り→「何故?」「驚かれたでしょう」→散歩→「心の澱を吐き出して欲しかった、だからあんな幻を」→「いいえ救われました」→「良かった。では戻りましょうあの場所へ」「はい」→(現実)→ストレス→

*下線部分は口にしていないと思うが、わかり易いので付け加えてみた。また、殺人と敦盛の記憶はその都度スポイルされたと思われる。薬売りに問われるまで、お蝶が自発的に思い出すことは無かっただろう。

 しかし、お蝶は、敦盛とは違う。
 お蝶は、モノノ怪に寸断された人格のひとつでありながら、お蝶そのひと自身でもある。
 ことを始めた責めを受けなければならない。贋の評定ではなく、薬売りの非情な裁定が下る。今度こそ、真実の姿が写し出された破邪の鏡を、お蝶は見なければならない。

 心を捨て、体を虚ろにし、母親の権威主義を、敦盛に再コピーして、永遠にループする歪んだ夢を紡ぎ出した、モノノ怪<のっぺらぼう>は、お蝶そのもの。

 「モノノ怪は、わたし」

───起きてしまった不条理は乗り越えてゆくしかない(『ゲド戦記』より)

 お蝶はもう敦盛の夢は見ない。旅立たねばならない。
 大好きな人を、もういちどみつけるために。自分の人生を生きるために。

 薬売りは 恋 という、優しい表現を、お蝶に贈った。それを私は、敦盛がたしかに存在したから、としたい。
 以下は解釈のひとつとしてお考え下さい。

 鏡をのぞきこんだお蝶。叫び声があがり、すべてが消える。

 真っ白な世界。
 ハイパーが剣を下ろしている。狐面も消えている。すべてが本来あるべき場所に戻り、お蝶は歪んだ夢を、もう見る必要がない。そこは「滅」のあとの「あの場所」。
 白装束のお蝶は「普段のお蝶さん」=人格が統合されたお蝶。が、どうやら、敦盛の蓄積した記憶を自分のそれとして認識していないようだ。

(「あのひとは、何処へ…」
 「モノノ怪、のっぺらぼうは、消えてしまった」
 「のっぺらぼう、と、いうのですか、あのひとは…なぜ、私を助けてくれたのでしょう」)

 お蝶にとって、敦盛は永遠に他者である。他人なのに、親身になって悩みをわけあってくれた不思議な存在。その名、そのわけを知りたいと、ごく自然に考えている。

 「強いていうなら、恋でもしたんじゃないですかね」

 「愛される、喜び」 は、人を変えるから。「ありがとう、もう大丈夫」

補遺

<のっぺらぼう>

 お蝶は体を捨て、幽体化して離れていった。
 残った体が───アヤカシ<のっぺらぼう>
 うーん、やはりアヤカシマニアだなぁ。

 のっぺらぼう とは、「面(おもて)を忘れた」状態の「名」である。
 「姿」は無いのではなく、器の中に何も無い状態を指す。「形が無い」のではなく、「中身が無い」のである。内側を支える、実となるもの、主体となるべきものが、無い状態なのである。
 「中身が無い」から、まとうべき「おもて」が定まらない。普通は、自我が状況に応じてペルソナを選ぶのに、自我がペルソナに振りまわされたり、支配される。結果的に「面(おもて)が無い(忘れる)」状態となる。
 <のっぺらぼう>とは、お蝶の空っぽの躯。
 本来、ひとつである魂と体を、ばらばらに、分離してしまった状態。

 夢見る力==幽体離脱 をストレス解消に用いはじめたときから、お蝶のアヤカシ化がはじまった。

 アヤカシ<のっぺらぼう>は、心を失った体、主体性を失った精神の、残滓と化してしまった外郭、“器”の部分。状況が変わらない限り、未来永劫そのまま在るだけ。漂うだけ。きっと、狢や狐が化ける“のっぺらぼう”と同じような、無力なアヤカシなのだろう。

 そして<鬼面>が、空っぽの体=「アヤカシの器」を乗っ取り、モノノ怪<のっぺらぼう>となる。

 権威主義の母親のペルソナ、母の人格プロトコルと呼んでもいい(笑)。母親の価値観をコピーした人格。
 母親がお蝶に植え込み、根づいたあとは自分で育てた、卑屈な性格───
 これが、アヤカシ<鬼面>(ごめん、アヤカシマニアだから)。

 物語では、一人の人間が複数の面をつける。母親も平常心?の面と般若という2種類の面を持っていて、慈悲の心が根底にありながら、その慈悲心も背反的な性質をそなえている。娘の将来を願いつつも、娘自身の意思を排除するというぐあい。アヤカシ<鬼面>は複雑な性格であり、娘といえど容易にコピーできるものではない。しかし娘はその影響を強く受け、行動に採り入れてしまうのである。

 わざわざアヤカシ<のっぺらぼう>を前提に、そこにとり憑く、としたのには理由がある。
 モノノ怪<のっぺらぼう>は、<のっぺらぼう>の器に<鬼面>を被っている。
 敦盛が<面>を被るのも、<のっぺらぼう>の器に、お蝶の夢から生まれた人格がとり憑いたため。
 <のっぺらぼう>の体が、複数あるのではない。
 敦盛も<のっぺらぼう>であり、同じひとつの体に“在る”のである。
 二人が同時に存在し、会話を交わしているのは───お蝶の心のなか、なのだ。

 モノノ怪<のっぺらぼう>は、自己を消失した<のっぺらぼう>が、ペルソナに乗っ取られ、ひたすらペルソナの意志に盲従する状態。
 目的、ベクトルはいろいろ(お蝶の場合は家督の存続)。極限まで自己犠牲を強いるので、下手すると肉体の死さえも厭わない、と思われる。とり憑かれた人にとってはじつに恐ろしいモノノ怪…かもしれない。
 (アヤカシとモノノ怪の危険度の差は、『もののけ姫』の雑面妖怪、<カオナシ>の豹変っぷりに通じるものがある…かもしれない。)

<あの場所>

 お蝶、<のっぺらぼう>の項でも触れたが、「あの場所」もまた、主の消えた虚ろな心を表す。
 本来、自我がしっかり鎮座すべき場所。「城」である。

 薬売りと敦盛との立ち回りに胸踊らせた、あのフレキシブルなマジック・ルーム、しかしひと皮剥けば無味乾燥な無人の屋敷、梅の絵だけが壁一面に描かれた、あの部屋こそが、「あの場所」。
 「あの場所」とは、お蝶の心そのもの。

 位相図でも時空図でも和合図でも描ければいいのだが、てんでダメで申し訳ない。
 「大正化猫」において、粉々の節子の身体が浮ぶ白の空間。節子の情念が焼きついた怨念の場───あれと同じく、お蝶もまた、自らの身体(精神)そのものを、モノノ怪の領分そのものに変化させてしまったのである。

 「台所」のイメージは、モノノ怪がぶんどった「城」に被せた幻覚。モノノ怪の支配の象徴。
 「牢」は敦盛がこしらえたイメージであろうか。つくづく、夢見る力の強い人達である。

<面>

 お蝶の心が体を捨てたとき、彼女の人格はバラバラに散逸してしまった。

 婚礼の場面で無数に顕れる、お蝶に親しげな、謎の能面。
 すべてが、お蝶の内面、ひとつひとつがお蝶の人格の、それぞれ異なる側面なのである。

 <面>があらわすのは人格だけではない。
 敦盛がお蝶を「あの場所」に引き戻そうとして断られ、困惑する場面で、面がくるくると入れ替わる。
 思案を巡らせると同時に、錯綜する気分のさまをも表現している。

   お蝶と敦盛の婚礼に「母上様」が介入したとき、男性の<面>は一斉に困惑と威嚇の表情を浮かべる。対して女性<面>は母親に会えて嬉しそうだ。女としての規範、心の拠り所はやはり「かかさま」なのだ。
 <面>は意志、感情、気分の表象でもある。

 それぞれの<面>はお蝶の中で、サブ的、補佐的な人格として様々な役目を担っていた。敦盛が言う「ずっとあんたの傍にいたんだ」とは、心の中での<面>が持つ役割である。
 敦盛はモノノ怪の傀儡であり、お蝶が手放した人格や気分を操っていた。お蝶の過去を見せまいとしていた態度からすると、敦盛も自分のルーツと役割を充分に理解していたようである…

 <面>に関しては他に、こじつけ的になるが、家人の「死体」の顔を覆う布(紙?)は、雑面(ぞうめん)ではないかと思う。雑面は神楽で使われる面の一形態で、神の異質な目鼻立ちを紙に描き、顔の前に垂らす。ごく普通の顔立ちの絵や、何も描かない=のっぺらぼうであらわされることもあるらしい。
 描かれた十字の分割は死人や祈りを示す十字架でもあるし、また、人格の「乖離→分裂」というタテヨコの分割を生じたお蝶の心の表象である(本当かよ)。精神の象徴的な死だ。

<煙>

 敦盛の「煙」の能力は「気分を入れ替える」ことである。
 「煙に巻く」=相手を混乱させる。判断力を狂わせる。騙す。

・白煙…認識レベルに作用(場面の転換)
・紫煙…情動レベルに作用(気分の転換)

 モノノ怪の一部なんだから、人格を放逐したり交換する力を持てるような気もするが…(自分で言ったとおり、我が力はその程度…なんだろうな)。

 薬売りが最初に<面>を取られて昏倒する場面。
 敦盛は「気分を変える」力を使って「悪夢を見せる」。 『うぬなど道化にすぎぬわ!』
 そして「道化」の<面>すら奪うことで 『あんたの役割はここにゃ無い。せいぜい探して彷徨うがいい!』

 逆さゾウに乗った薬売りが、
 「面と描いてオモテとも読む。所詮ヒトの顔などおもてに現れた形に過ぎぬ」
 顔形、姿形を軽んじているわけでは決してない。おもてにあらわれる形の不確かさ、移ろい易さをいう。それ故に主体性を持ちなさい、かお(体面)など気にせずに…とは言ったかどうか。

 「私がこの面をおもてと認めればいとも容易く、私の顔となるのです」

 うわっつらだけの<面>ったって、私とアナタの関係性においてはほんとうの“顔“なんです。
 『へのへのもへじ、でも何でも、アタシにとっちゃ同じことですよ、充分つかえますからねェ』
 まして、アタシは好きなときに、好きなカオを、好きなように自分でつくれますしねェ。と、トドメに元の顔へ戻ってみせるわけだ。

 薬売りは意志力で、紫煙の呪いを解いたのか。いや、最初から術にはかからなかった、フリだけというのが妥当のようだ。実際は天秤を通してちゃっかり芝居見物を決め込んでいた。なにせ、敦盛が出来ることといったら、気分転換だけなんだから…
 同じ人間がさまざまな<面>をあらわすというのは、薬売りの根本スタンスでもあるらしい。

付記 その1 薬売りの口上

「見ての通り 貴方のご同輩ですよ 薬売りをしてるんですがね」
 斬るためとはいえ、モノノ怪の側(とり憑かれた人の立場)に立ったこの入り口上は、もう限りなく優しいのではないか。

「客のひとりに」 薬売りの『客』はモノノ怪。
「…薬が全く効かない 難癖」⇒他力本願の喩え

『薬』=モノノ怪の「力に頼って治そう」とする⇒「モノノ怪の力に甘え」ることが 「気に食わない」
『信心』己の意志を信じ、心を手放さぬこと。
『金』=薬(モノノ怪)に頼り続ける(ループの維持)に払った労力
 それを『返せ』とは、何たる責任転嫁!

「番屋に駆け込んだところ」奉行がモノノ怪でしたとさ、というオチ

付記 その2 敦盛と薬売りの立ち回り:鏡のシーン

部屋の真ん中でモノノ怪が叫ぶ

 「何をなさいます、離して…アッ、離して下さい。離して!」
 薬売りは(多分この時)お札をお蝶に仕込んでおいたのだろう。

 敦盛と再度打ち合った薬売りは、遠隔操作で護符を発動させる。
 呪符が展開、お蝶を結界で封印し、お蝶(モノノ怪)と敦盛との、連携を断つ。

 巨大化した鏡に敦盛の姿が写り込むシーンは「呪符の封印」と同義の表現。
 鏡ならではの効力も兼ね備えている。敦盛の「紫煙の呪文」を跳ね返す。
 跳ね返った煙は、敦盛みずから浴びてしまう。

 敦盛がお蝶を騙したり、お蝶に代わっていろいろ頭を使ったり、薬売りをちょっと困らせた能力は、すべてモノノ怪が与えたもの。その根源はお蝶の他人格。(補遺<面>、<煙>参照)
 モノノ怪の呪縛を解かれ、紫煙の呪文を浴びて制御を失った他の<面>どもが、敦盛の意識へどっとなだれ込む。
 認識と情動が混乱し、簡単に言えば「コロコロと激しく変わる気分」に翻弄され、敦盛は昏倒する。

後書

 さて真剣に遊んできました。
 「のっぺらぼう」からリアルタイムで観はじめたのだが、これ書きはじめてからは、観直すよりもひたすら調べてはメモる繰り返しだった。ネットで当たっても、用語や概念に関して知識が皆無で、まず言ってることの意味がわからない。材料が揃ったら、ほとんど解になっていた。
 観た時はわかったつもりでいた。けど、自分がわかった以上の理解があると知り、楽しむつもりで手を入れたら、実はさっぱり分かってなかったわけだ。「モノノ怪」のストーリーは必ず理詰めで追いかけることができる。楽しかった。
 メモ書は、メインとなる能、分裂病に関するもの、絵や音の暗喩について、源慧との比較、果ては進化の概念を取り入れた薬売りの存在定義など、ムダに多岐に渡る。

 敦盛を100%お蝶由来とするのが、いちばんむつかしかった。けど、外から来たアヤカシがいないと解釈できないとゆーのが悔しかったから、やってみようと決心したので、投げ出すわけにもいかない。
 解を進めるほど、敦盛の存在が消えていってしまうのにイヤでも気づくし、や〜辛かった。パラノイア人格も認識レベルでは他者と厳密な区別はないのではないか、という見解は苦し紛れではなく、むしろもともと私自身が考えていたことに近く、だからこそ敦盛は“他者”でありえたし、観た当初もそういう感想になったのだが。あと、スタの方々の捉え方、届けたかった“思い”についても、今でも考えたりするんですけどね。「2分」のあらすじ書いてみたら、敦盛が手伝いとなっちゃったし。だから、この物語は贈り物だと思うんですよ。ほんとに。一生の。

 そんでいいんだよな。敦盛。

 このページのトップへ

 サイトのトップへ

inserted by FC2 system