背景:Angelic〜天使の時間〜

座敷童子の解・改

この文章は過去の「座敷童子解」をもとに書いています。
が、過去文を先に読まれる必要は、とくにありません。
解・改は過去解の破壊が目的だからです。わかりにくいところ、
アレ?なところがあるのは、論に難があって、文が下手だからです…
読んで下さるならどちらからでも、念のため過去の「座敷童子解」は→こちら

永遠の四か月に捧ぐ

 モノノ怪の本質が「ヒト」の情念であり、アヤカシはその触媒に過ぎないことが、「化猫」を見てよくわかった。
 「化猫」にはアヤカシの猫という、ヒトと同じくらい恨みをくすぶらせた、具体的な存在が描かれる。
 だが、モノノ怪の主体は、あくまでもヒトだからだ。
 アヤカシの概念自体が、この作品では超常現象全般を担うため、仕方がないといえる。
 「怪/モノノ怪」というシリーズはどこまでもヒトの身上にまつわる怪談話なのであった。

 そう考えると第一話「座敷童子」でのモノノ怪も、当初じぶんが考えていたよりもずっと、ヒト主体、すなわち最も深い因縁で結ばれた、志乃が主体になって動いているのじゃないか、と思った。
 解・改はこの立ち位置から出発する。

 * * *

 ラスト近く、ほんの一瞬だが、黄色の童子がこちらを向いて「睨む」シーンがある。この短いカット、私はずっと、全く気づかずにいた。

 モノノ怪の象徴である<達磨>。数ある達磨のうち、黄色いカラーで志乃との縁をあらわす達磨にヒビが入り、座敷童子が「おめでとー!」と唱和する。
 赤い帯が、志乃と達磨をはっきりと繋ぎ、黄色童子の声が、志乃への思いを伝える。

 そして黄色い童子は、志乃とじかに手を繋ぐ。彼/彼女はニコッと笑って志乃を見上げているが、やがて、静かに顔を向けると、こちらをしっかと「睨む」のである。
 視線の先にいるのは、座敷童子たちだ。

 志乃が黄色達磨を抱きしめて、
「どういたしまして…私のところに来てくれて ありがとう」
 と言うのは、その直後である。
 達観したような、無表情な顔で親子を見つめていた座敷童子たちが、一斉に「驚く」。そして退魔の剣のカチンが入り、「笑顔で」斬られていくのである。

 * * *

 黄色童子はなぜ、厳しい表情を浮かべたのだろう。
 「睨んだ」のだとすれば、こんな見方ができる。

 志乃を追いつめた<座敷童子>のうち、お腹の子の記憶を(偶然)持ったモノノ怪が、志乃の決意を理解して乱暴なふるまいを謝り、改めて「このひと」に子どもの親たる資格を認め、「もう傷つける事は許さないぞ」と、他の童子の魂に宣言する。

 つまり、黄色童子の「睨み」は、モノノ怪との決別宣言───とまでいかなくとも、他の童子への牽制みたいなものだろうか。
 その黄色に対して、他の童子たちは、ムスッとした顔で、何と応えているのだろうか。
 『もう何もしないよ。その母親がどんな生き方を選ぼうと、もうおれたちには関係ない。どーでもいいから』だろうか。

 彼らは“仲間”の因縁に関心を示さないようにみえる。
 “仲間”が生まれる(縁を得た)とき、彼らは「おめでとー!」と素直に祝福してくれる。
 そこには、「お前の縁はお前の縁、オレの縁はオレの縁」という明確な区引きがある。

 たしかに、彼らは縁(親)を奪い合ったり、縁を得たものを妬んだり、といった醜さは持ち合わせないようだ。
 しかしそれは、欲がないのでも、倫理を重んじたからでも、ないのではないか。
 ひとりひとりが、「自分の縁」に強力にこだわっていたから、ではないか。
 私は今、彼らが他者の縁を奪うつもりはないと書いた。自分の縁にこだわっている、とも。本当にそうなのか、書いたことを忘れずに先へ進もう。

 * * *

 黄色童子が、モノノ怪へ牽制の「睨み」をきかせたのなら、他の童子たちは『自分たちにも生まれる権利があるんだ』と、応えたようにも思える。
 生まれる権利、育てる義務。義務は重い。それを嫌がるどころか、「ありがとう」という志乃。童子たちが驚くのも無理はない。
 退魔の剣によれば、この肯定の言葉こそが、本当の望みだった。

 ということは、彼らは自分自身のの本当の望みを知らなかったのか。
 では、望みはどこにあったのだろうか。どのような思いが、彼らをつき動かしたのか。

蛇足だが、赤子は未来時制でものを考えないかもしれない(笑)しかし物語がフィクションであるため、その点は無視していい。常に未来について考える必要に迫られるのは胎児や亡者でなく実質的に生きている我々自身なのだから、物語はそのきっかけでありさえすればよい。

 望むとすれば、もちろん「この世に生まれること」だったろう。
 だが、親に肯定されることが、彼らの予想のうちに入らず、また他者の縁を奪うことでもない(イイナーとは思うが)とすれば、彼らの望みは、それぞれの親、宿った腹から、いわば人間相応に“生まれる”ことを指す。“他のひと”の腹から、では、駄目なのだ。『ボク、このヒトがいい』

 親子関係は選べるわけではない。偶然の縁である。それでも童子たちが『このひとがいい』と繰り返すのは、親への執着をあらわしていた。
 冷淡にすらみえる反応の奥には、特定の親との“縁”を絶対視する思いが、根底にある。「あなたがいい」に、決まっているのである。

 黄色童子は言う。縁は偶然。でも、ぼくはここがいい。
 他の童子は言う、縁は偶然、でも、ぼくらはあすこがよかった。
 (よかったのに…)

 もし<座敷童子>が、他者の縁を奪うつもりもなく、志乃と気持ちを通じたのも偶然に過ぎず、志乃が宿した子どもを確実に生ませるため、そのためだけに迫っていたのだとしたら、そして彼ら自身は、自分の親から生まれたかった無念だけを切に抱えていたのだとしたら。
 童子たちは、まさに薬売りの言う「この生、この縁に囚われ」て、座敷=終ってしまった生のなかに留まっていた。
 “モノノ怪”である黄色童子は、その身上、心情をよく理解していたはずだ。彼らの一部なのだから。

<座敷童子>が強引に志乃の身体を乗っ取ろうとした可能性は決して捨て去れない。久しぶりに妊婦が座敷に入り込んできたために、アヤカシが目覚めたのは間違いないからだ。しかし彼らの、自身の親に対するこだわりは見逃せない。ここでは、最初から<座敷童子>の乗っ取り意志は無かったとする見方で、話を進めている。

 ドラマのワンシーンを想像してみよう。気脈の通じ合う友人、気心の知れた同士が、同じ立場からひとつの事柄に関して、見解を巡って対立している。ひとりがじっと静かに相手を見据える。このボディ・ランゲージでどんな気持ちが伝わるだろう。
 牽制───さもありなん。が、もし相手が守勢ならば、牽制の必要はないのだ。
 志乃が子を生むつもりである以上、攻める意志はなくなった。
 黄色童子もわかっていたはずだ。だがまだ何かがある。だから「睨んだ」
 あるいは静かに、仲間を見据えた。
 これは、問いかけではなかろうか。

 なぜ、問いかけといえるのだろう。問いならば、どんな問いだろう。
 やはり、黄色童子のセリフが手がかりである。

 「ぼく、このひとがいい! いつもなでてくれる、やさしい───
 このひとでよかった。
 からだを、たいへんにしてごめんなさい。いつも、頑張ってくれてありがとう。いつも、たくさんお話ししてくれてありがとう。
 ぼく、あなたがいい───」

 おわび、お礼、受け容れ───これらは、黄色童子から志乃へ、子から母へ向けられた「気持ち」である。
 そのセリフを聞いて、他の童子たちはどんなふうに思ったか。いろいろ前述したが、さらに想像してみる。
『なぜ、詫びたり有難がったりするんだ?
 その母親は育てるつもりみたいだから許すけど、親なんて信用ならないぞ。
 おれたちは生きる権利があるし、親は育てる義務があるんだ。親子が一緒にいるのは当然だ。助け合うのも、支え合うのも、親子なのだから当然なんだ』

 この想像は妥当だろうか?逆説的だが、「ありがとう」に驚くという「理(願い)」から導き出した。
 彼らは、親に切り捨てられた子どもたちで、それでも、親子の絆を絶対のものと信じている。当たり前のことを長々とことばで伝える黄色の行為は、不必要だと思う───
 だから、黄色の暖かい台詞を聞いても、見据えられても、壁の能面のような顔を返すのである。

 ところが、志乃は「どういたしまして、こちらこそ選んでくれて、私のところに来てくれて、ありがとう」と言う。
 志乃の言葉が予想外だったからこそ、<座敷童子>は驚いた。かつての女郎たちと同じく、父親を欠き、味方を欠いた孤独な女。そんな志乃から、ほんとうに望んでいた言葉があらわれるとは、思いもしなかったのだ。

 * * *

 まるで、志乃から感謝の言葉を導き出すために、黄色は自分の気持ちを語ったように見えるではないか。(脚本的には…^^;)
 万感の思いを込めた、自然な台詞だとはいえる。しかしざっと眺めてみたところ、その内容は、少し前に、赤い童子が、自身の親(たぶん女将)に宿ろうとするシーンで、語る台詞と、ほぼ同じ。

 が、似ているようで、台詞に込められた思いは、微妙に異なる。

 赤い童子は「この人、とってもやさしそうだから…」という。
 後に続く「気持ち」は(…だから、この人の子でよかった)となる。だが悲しいことに、この言葉は実質を全く欠いていて、子の願望でしかない。

 黄色童子は、
「あなたの子どもでよかった。いつもなでてくれる、やさしい…」と言う。

 志乃の子どもは、実際に志乃のケアを受けているので、この言葉は実質を伴う。
 とはいえ、黄色童子は、好きになった理由を並べて───いつもなでてくれるから…ムリしてくれるから、やさしいから───「だからあなたがいい」、と言っているのでは、ない。
 この言葉は、志乃から頂いた誠実さと温もりへの、返礼であり謝意なのだ。

彼/彼女が宿ってからの時間は、子どもにとってかけがえのないものだが、時間や恩がすべてではない。(子どもが親に恩義を感じるのは自然だが、あまり感じすぎると<のっぺらぼう>になってしまう。)

 黄色童子にとって、「親を選ぶ」とは、得た関わりを、ずっと保ち続けてくれる、そういう意志を持った人と、共に歩むことだ。
 関わり続ける、ということは、その辺に転がっているような、当たり前にあることではない。偶然の奇跡に、互いの努力を重ねて、初めて保たれる。義務ではなく、気持ちなのだ。  気持ちを言葉でハッキリと伝え、伝わることが重要なのである。どんなに気脈が通じ合う同士でさえ誤解は生じる。気持ちを伝える行為そのものが、重要なのだった。

 * * *

 黄色童子は、仲間に向かって、「お前らはそれでいいのかよ」と問うたのではなかろうか。一方的に断たれたその縁に、なおもしがみつく童子たちに、それでよいのかと、問いかけた。
 しかし、留まる魂は頑なにふるまう。命が宿る時、きっと子は一瞬で、親を愛するにちがいない。奇跡的に得たかけがえのない絆だから。

消極的な姿勢で捉えると、自分で選ぶことが出来ず、得た縁にしがみつくしかないのが「この世に生まれる/生きる」ということである。
運命を受けとめるひとつの方法が、愛することだといえる、かもしれない。

 どんな魂も望まれて生まれ、生きたいと願う。なのに裏切られた。無念にちがいない。
 望まれなかったのは、貧しかった事情もある。だから、親を恨んではいない、のかもしれない───しかし、信頼はない。
 傷ついた魂が、次にまた生まれるにせよ、親を持つのが恐ろしいなどと思ったらどこへも行けない。

絶望し切っていたのだろうか。なにせアヤカシと化し、50年以上留まり続けるほど深い無念である。
いや、希望が皆無ではなかったに違いない。志乃の子どもを守ったのだから。
やはり、彼らはずっとそのまま、親を愛していた。切れた帯にしがみつき、ただぼんやり「生まれたかった」とだけ思いながら、ずっとそのままでいたのだろう。

 辛い均衡状態を、黄色童子は、なんとか抜け出したい/抜けさせたいと思ったかもしれない。
 「ごめんね、ありがとう」あの台詞は、志乃へ送るメッセージであると同時に、座敷に囚われた魂へ聞かせているような気がする。

 * * *

 座敷に繋ぎ留められたアヤカシ。「真」は遊郭の時代に始末された赤子の無念。「理」は望まれて生きたいという願い。その願いは親への───そして自分自身の、生への信頼をとりもどすことで、叶えられぬまでも満たされたようである。
 志乃の情念に力を得てアヤカシは顕在化した。童子の似姿は、志乃の影響で派生的に出現したが、個性はアヤカシ自身のものである。
 アヤカシと、志乃を主軸とする因縁で結ばれた人間の情念が、凝縮してモノノ怪となる。が、因縁は常に変化していて、モノノ怪を顕わしも消しもする。

 * m(__)m *

 ここまで読んでくださってありがとうございました。目次を作る関係上、題は「前書き」ですが、例によって長文のうえ、書きたいことを書き尽くしてしまったので、解としてはこころおきなく終ります。
 以下は、、、えんえんと粗筋の解釈です。。。
 前書きにて書き尽くした感はあるのですが、まだちょっとだけ、言い足りないことがありますので、蛇足ながらまたしても長文、いきまーす。
 (なおモノノ怪<包帯鬼>なる名称は、この解の勝手な命名です。「補遺・後書」参照)
 では、えにしとおヒマのある方、どうぞ。。。

 しのつく雨の夜。赤い橋の向こう側に、軒に提灯をたくさん下げた屋敷が、でんと威容を構える。
 稚児達磨(おくるみ達磨)を沢山描いた屋号の看板が印象的だ。賑やかな宴会の音が通りまで漏れ聞こえる。

 橋を渡って、薬売りが屋敷に近づくと、閉じていた門戸がすっと開く。人々の賑わいが雨音に混じる。屋号の羽織を着たチリチリパーマの男と、老いた痩身の女が、うさんくさそうに見返す。そこは宿屋であった。

宿の名前は台詞に無く、看板の大写しと羽織のマークが宿のイメージを補間する。必要なのはイメージであって名前ではない。という割り切りっぷりが面白い。
似たような演出が「海坊主」の船の名前にみられる。冒頭の台詞に組み込まれた「ソラリス」の想起するイメージは、物語に判じ絵(コンテキストを伴う絵)的な深みをもたらす。しかし「座敷童子」のように全く示されないと「どこにもないけど、どこかにありそう」な生々しさが余計に感じられる。
逆に「のっぺらぼう」「鵺」では過剰なほど「モノ・コト」の名称を強調することで、モノノ怪の息苦しいほどの存在感を醸し出す。

 例によって、薬売りはニッコリ笑顔をみせるだけで、人々の警戒心を崩し、中に入り込んでしまう…笑顔?彼は笑顔を見せない。隈取が笑っているように見えるだけで。
  番頭のパーマは文字通りちりちりと逆立ち、老女の仏頂面には紅がさす。欲のきなくさい匂いが漂ってくる…。

 夜更け。赤い橋の上に女性がしゃがみ込んでいる。黄色いコート(道行)の下のお腹は膨らんでいるように見える。
 彼女はお腹をいたわるように話しかける。自分自身を励ますようでもあり、只ならぬ境遇を予感させる。右手首には黄色いマスコットが紐でぶら下がり、お腹をさするにつれてくるくると揺れる。

昔は、子どもが生まれるとすぐ、災いを引きうけてくれる形代(身代わり)の人形をこさえる習慣があった。有名な飛騨「さるぼぼ」、奈良の「括り猿」あるいは中国土産の「唐子飾り」などに名残が見られる布人形は、もとは子どもが育つと川に流したりして手放すものだったらしい。簡単なつくりで娘たちが裁縫の手習いに覚え親しんで育ったためか、寺社に奉納されるなどまじないの機能を残したまま、いつしか子どもの玩具や御守として手元に置かれ愛された。
この人形はちょっと形は違うが、やはり子どものための御守であろう。彼女がこさえたのだろうか、それとも“父親”からの最後の心くばりだろうか。

 身重の女は、宿を求める。「灯りがついていたのは、ここだけなんです!」

 彼女の足元には、黄色い達磨がひとつ、ちょこんと立っている。

達磨ではなくコケシ(木削子)ではないかという声もよく見る。素材はともかく、尻すぼみの達磨人形なら普通はもう少し横幅が肥えている。とはいえコケシらしくスリムでもない。あえて言うなら、おくるみ人形か。既存のイメージを与えないため、わざと曖昧な造形にしたのだろうか?
カラーバリエーション豊富で、卵というか、繭型のシンプルな姿。デフォルメされているけど袷の部分はリアル。というより、全体的にある意味リアルな造形ともいえる。大きさがちょうど胎児くらいで…。

 宿に入ったあとで、さらに「別の誰か」の足元が映る。
 黄色い達磨があった辺りに、黄色い人形が落ちている。ぶら下げていたマスコットだ。
 傘の露を払っているあいだにでも落ちてしまったのだろう。

屋敷を覆ういびつな情念が、御守に託された思いを、歪んだ鏡のように反射する。
雨霞のスクリーンにふんわり映る、黄色い達磨。

 今宵は部屋が満杯だ。徳次という名の番頭は、若い女を雨のなかへ追い出すわけにも行かず、かといって部屋が空くわけでなく、言を濁すばかりで埒があかない。優柔不断だが情は厚いらしい。
 しかし、色男とサシの会話を楽しんでいたあの老女───女将は、水を差されて機嫌が悪い。番頭を叱り飛ばし、返す刀で女を切り捨てる。「やっかいごとはごめんだよ!」

厄介事とは、身重の女がたった独りで夜更けに血相変えて転がり込んできたこと。しかし番頭は、当人の口からきくまで、妊婦とは気づかない。たしかに女は着ぶくれたコート姿だが、宿の番頭としては少し鈍感か。
女は、いわゆる男好きのする顔立ちである。そんな彼女の只ならぬ気迫に、番頭は呑まれてしまったのか。

 女のほうは不安と懸念でいっぱい、子を護り身を守る以外には考える余裕もない。疲れ切り、寒さにふるえながらも、一夜の宿を得るために、彼女は命賭けの“見得を切る”
 「明日の朝には、店の前に、私とやや子の骸…そちらのほうが、ご面倒じゃありませんか?!」

 なけなしの気力と知恵を振り絞るも、老練の女将には通じない。「脅しにゃのらないよ」
 しかし妊婦も引かない。人目も巻き込んで、ここぞとばかりに訴えまくる。娘っこ一人くらい…という雰囲気が漂い始める。
 ま、金はあると言っているが、とにかく部屋が無い。

 女将の脳裏にふと、ある事が思い浮かぶ。徳治の耳に囁くと、またもや番頭は仰天する。
 あとで自分の部屋に泊めれば云々…とかほざいているが、ともかくその方がまだマシに思えるほど、女将の判断は非常識だった…。

それこそ女将の部屋に泊めるという手もあったはずだ。「あの部屋」に泊めるつもりになったのはなぜか、女将の気まぐれなのか…

 気の遠くなるような階段を昇り、数え切れない廊下の角を曲がり…。
 疲労とお腹の痛みをこらえ、女将のあとについて行くと、やがて宿の最上階まで辿りついた。奥まった座敷の、あまりにみごとな「しつらい」に、彼女は驚く。

宿のアヤカシたちが、風に煽られた火の粉のように、次々と気配をあらわす。志乃が廊下で聴く笑い声、足音。しかしまだ姿は無い。

あとで女将が「当夜の宿泊客に子どもはいない」と言うので、子どもの姿や声を見かけるのは完全に異変だとわかる。
志乃(と薬売り)が来るまで、"彼ら"は姿を持っていなかった。

 螺鈿の衝立、大型の座卓、壁も建具も見事な装飾。
 女将が手馴れた様子で舶来の暖炉に火を入れると、部屋はすぐに温まる。素泊まり客など泊めてよい部屋のはずがない…
 しかしギモンは疲れに呑み込まれる。土間でよいと言ったのに、女将も番頭も結局いい人だったみたいだし、この部屋はとにかく温かい…。
 眠りに引き込まれそうになったそのとき、耳元でころんと何かが鳴る。微かなその音は、眠気を越えて注意を惹く強さをそなえていた。

 身を起すと、座卓の上に黄色い達磨がひとつ、ちょこんと立っている。

 何となく達磨を手に取ろうとして初めて、腕に紐でぶら下げていた人形が無いのに気づく。慌てて記憶を辿るが思い出せない。
 よほど大切なものだったらしい。どうして落としたりしたんだろう。落ち込む彼女に、突然そばで誰かが話しかける。「それ、返して!」

アヤカシの姿が、ここで初めて、志乃に"見える"

 身重の女性と黄色い童子、ふたりは座敷で「初めて」出会う。

黄色い達磨を「返して」と言うのは、達磨に込められた縁が、ほかの「誰(童子たち)でもない」自分のものである、という主張。むろん、彼/彼女の言葉が真実なら。しかし、童子の声音には真実味がある。

 女は気おされた格好で、達磨を渡す。そんな彼女に、妙な子どもは重ねて問う。

 「ややこがいるの?」

アヤカシに姿を与え、力をもたらしたのは志乃。
志乃がいちばん会いたかったのは、自分の子ども。
座敷で志乃は、願ったものを見たのだろう。

達磨のやりとりを通して、黄色童子は、親子の縁の相手が志乃だと知るようだ。
あるいは、やりとりそのものが縁むすびなのか───

胎児の記憶と座敷童子の記憶、両方がこの子に、志乃を守らねばならぬとささやく…?

 達磨を返すと、来た時と同じく、子どもの姿は唐突に消えてしまう。暖炉の火もいつのまにか消えている。
 思わず寒さに手を擦りあわす。雨は依然として降り続いている…。

 誰かが階段を昇ってくる。過剰にあえぎ声が上がるのは、息切れ…ではなく顔面を布で覆っているためだ。

 その…男、直助は、女を殺す役目をいいつかった殺し屋だった。宿の前に落ちていた御守を見つけ、余人が寝た頃を見計らい上がり込む。

直助のさす傘はモウセンゴケだか、ハエトリソウだか、粘着質の無気味な柄だ(美術さんのアレンジがいいので多少かわいく見える)。
壁にアリマキを食う天道虫が描かれていたり、女将の髪型がカタツムリそっくりだったりと、ちりばめられたデザインは妙にナマモノっぽい。
天候も湿気に一役買っている。雨のニオイまでも漂ってくるようである。ナマモノを腐らせる湿気。物質が一つところに溜まれば「ただの腐った」モノでしかないが、ライフサイクルにおいて、どのみちモノが滞ることは許されない。弱肉強食で失われた命も、降る雨に流れていく。

 直助は、女の寝入りばなを襲い、恐ろしげな刀であと一突きの所まで追いつめる。
 が、まさにその瞬間、なにか超常的な力で、宙へ引きずられ、体をねじ切られ、天井へ埋め込まれる。(文字で書くと本当に酷い有様だ)
 一部始終を見ていた志乃は、あまりの奇怪さに気絶してしまう。

 直助のドタバタが屋敷じゅう騒がせたようで、女将ら宿人がやって来る。座敷にはなぜか、勝手な出入りを禁じておいたはずの薬売りがいる。

 薬売りは、放り出された刀を見、奇怪な死にざまの男と、気を失った娘を見て、人ならざる“下手人”が彼女を守ったのだ、と言う。

 「しかし、何ゆえに…」

薬売りは、「何ものが」「何から」守ったのかを見て取る。
そこから「何故」を推測する時、人に憑いて初めて存在し得るモノノ怪の性質を考えれば、結論は簡単。

 よほど癪に障ったとみえ、女将は薬売りを下手人呼ばわりする。手っ取り早く片付けたかったのだろう。
 が、意識を取り戻した女が、それをきっぱりと否定し、証言する。
「巻かれて、浮き上がって、でも巻きついてなくて、ぐる、ぐる、ぐる、ぐる…」生真面目でじつにタフな女である。

 モノノ怪だと、なにバカなこと言ってんだい!肝の据わったリアリストの女将が、座卓の上の黄色い達磨を見、なぜかぎょっとする。たかが子どもの玩具なのに。

女将は達磨のかたちを克明に覚えていたようだ。むろん視聴者もその姿には馴染みがある。
しかしそれらは、店の絵看板を除けば、すべて幻という描かれ方。
志乃でさえ、子どもの声や足音は聞いていても、廊下に転がっている達磨を見ていない(厠に行く途中の薬売りが横切った巨大達磨はホントの置物だ、と思うが…)。

つまり、店に達磨は(絵とあのデカイの以外には)、ない。目につくところには一切おかれていないのである。
女将は、“それ”を、今、一切置いていないこと、そしておそらく、それが“出てくる”事などありえないと熟知している。なぜ知っているのか?しまい込んだのが女将自身だから、というのが妥当だろう。ともかくも女将の驚きは並ならぬもので、気丈な女将の声がいっとき擦れるのも上手い。

 「この部屋にあったんです。子どもが取りに来て…」
 「子ども…?何だって…?!」

 「子ども」の気配を感じた彼女の、言葉とジェスチュアに導かれるように、戸がひとりでに閉じてゆく。薬売りがとっさに結界を張ると、部屋全体に浮びあがるのは、赤い帯のような布ですっぽり覆われた有様。志乃を包もうとしたのだろうか?

敵意を感じる場面。男を捻り上げた“下手人”にとって、この部屋の何かが…たぶんほとんど全部が“危険”なのである。
薬売り(や視聴者)から見れば、襲撃としか思えない。だから薬売りは札を展開し、志乃を遮断した。妥当な行動ではある。「因縁」につきまとわれた人間が、幸福になれるはずはない。

 「ここにいるのは、屋敷に繋ぎとめられたモノノ怪。子ども、赤子の声、そして…羊水(エェェエ)
 こりゃあ、座敷童子だ」

 薬売りが(けっこう強引に)モノノ怪の「形」を看過し、退魔の剣の相槌(認可)が入る。いよいよ、真と理───事の起りと成り行き、モノノ怪の思いに迫る時が来た。

天道虫を背景に、揃いの浴衣を羽織って群れ集い嗤うのは、移り気で享楽家の“旦那”たち。
彼らの行動や本音は、物語の主役とはならない。にも関わらずこの物語ははっきりと、男たちの行動の軌跡で出来ている。
物語はまた、女たちの行動の軌跡でもある。片方だけはあり得ない。

しかし、どちらも物語の外殻だというのに、父である男と、母である女の、それぞれの軌跡の交わらなさ加減はどうだ。
親子の絆と呼べるものは始めからなかった。彼らはそれを認めようとしなかった。結ばれ「続けて」こその絆。それを知るのは辛いことだ。

 その女、まだほんの娘───志乃は、薬売りに促され、自分と直助の関係を語る。彼女は、奉公先である武家の跡取りと身分違いの恋に落ち、子を宿した。

娘の名前について、劇中人物は全然気にとめていない。娘の名が必要なのは視聴者だ。単純に名前がつくだけでもイメージは具体化する。逆にいえば、劇中人物たちは互いに親しくなろうなどとカケラも感じていない。「海坊主」で三國屋が自己紹介を促すシーンが思い出される。客どうしは知り合いたいとカケラも思っていなかった。
薬売りが「只の男ですよ」と常づね云わされるのも、モノノ怪を斬る(因縁を断つ)のが最終的に個々の「只の人間」に帰すことを端的に示しているのだろう。
とはいえセリフがお約束ともなれば、それこそソレが“カオ”となる。イケメンで薬売り業でモノノ怪を斬りに現れ斬ったら消える“男”が、他に一切素性を問われずに済むのも充分うなずける。シェーンの越し方行く末など知らずとも確かにヤツはそこにいたのである。

 事を公にしないという約束で、志乃は路銀を渡され、奉公先を出た。お腹の子は結果的に不義の子になってしまった。
 結局、屋敷の近所から追い払ったのち、抱えの用心棒が始末する、という手はずだったようである。
 いいようにあしらわれて、と、女将と徳次は呆れる。

 しかし志乃は、あくまで子は産む、ときっぱり言い放つ。

 その時、モノノ怪が「座敷に繋ぎ止められた」思いをぶつけるかのように座敷を揺るがした。
 人々は座敷に閉じ込められる。

志乃の念にどんどん力を得て、護符の力を破り、童子の姿がどんどんあらわれる(もともと座敷に憑いてるんだから、始めから敵地のど真ん中にいるようなものですが)

 モノノ怪が怒りをぶつける。何度も、何度も。
 座敷童子のひとりが「おっ母あ」と呼んでにたりと笑う。コワい。
 志乃は再び気を失う。

<座敷童子>は志乃(の意識)だけをかっさらう。彼女ならわかってくれるという前提があるが、それは甘えでしかない。

 水音で目覚めた志乃は、ひどい匂いのする部屋で目覚める。
 彼女の腹の傍らには、あの達磨が。ぞっとして思わず放り出し、とにかく離れようとする。障子の向こうから聞こえる声に気づき、ワラをもすがる思いで覗き込むのだが。
 一つ布団にしどけない姿の男女。睦事の真っ最中であった。志乃は顔を赤らめすぐ障子を閉じるが、カメラはスクープよろしく情事の“後”を追いかける。布団の下から、謎の赤い帯がどんどん伸びだす。部屋の端に達磨があらわれる。達磨は人の似姿───童子の姿となる。
 未だヒトならざる、いびつな子どもはにこっと笑う。こちらが参るくらい良い笑顔で。

したり顔でニヤリ★とでもしてくれた方が、まだしも場の雰囲気に合うのではないか。あの嬉しそうな笑顔は反則だ。
彼らはまだ親を慕っている。限りなく憧れている。

 自分がいる部屋のなかを改めて見まわした志乃は、満々と水を湛えた石造りのプールに気づき驚く。プールの真ん中に寝台ほどの大きさのブロックがひとつ置かれている。周囲をひたひたと水が叩く。
 「ここは…一体、どこ?」
 あの座敷にはちがいない。壁や床の模様や、座卓がわりの石の寝台は“あの座敷”の延長上に存在する。これは夢だ。…

 ほかの連中は変わらず足留めされている。
 モノノ怪の強力な影響下で、薬売りは忍耐強く、「真」と「理」を探り続ける。

モノノ怪の領分が、かつてあった出来事を、人々の心の景色、夢(白昼夢)として映し出す。
夢の中で、人々は互いの記憶を共有する。それぞれの記憶、それぞれの個性がぶつかり合う。

不意をつかれた薬売りだが、志乃が「さらわれる」のをそのまま見送るのは、夢だと承知していたためだろう。
だが夢でありながら、ここはモノノ怪の領分、ヒトの精神にとって危険な場所である。札や天秤の"センサー"が全方位フォローしているので、とりあえずは安心なのだが。

 女将は頑として“口を割らない”。既に明らかになりそうなところまで迫っているようだが、退魔の剣も天秤も、まだ何も捉えられない。

<座敷童子>は志乃を逃がそうとしている───“危険”な場所から。
しかし怯えた志乃は彼らの声に従わない。鈍い、ニブイっすよお志乃さん!(後から考えればですが)
志乃にしてみれば、モノノ怪のすることがさっぱりわからない。達磨をこわがって放り投げたりするので、黄色童子は自分も“また”捨てられる(られた)のだと感じる。この誤解は、志乃に対するモノノ怪の態度を変化させる。
産みたい、産まれたいという相補的な情念のもとにシンクロしていたはずの、志乃とモノノ怪の意識がズレはじめる。志乃のほうは、出たり消えたりする達磨や直助の怪など、次々起る怪異でパニックに陥っているだけなのだが…。
ふらふらと座敷を去る志乃の背中を、見送る黄色達磨の恨めしげな姿がコワい。

 もとの部屋では、女将がようやく重い口をひらきはじめる。

 女将が語り出すと、その記憶がさっそく夢の中へ流れ込む。
 薬売りの話相手はいつのまにか、美しい花魁に変わる。女将の若かりし時分というわけだ。
 天秤が変化を捉えて敏感に動きだす。

夢に投影された彼女の精神は、若く美しい姿をしている。こと“達磨の件”に限り、女将の信念は過去と微塵も変わらず、またその精神力は、過去からいささかも衰えていない。

 二人がいる場所も、明るい観音像が描かれた部屋ではなくなっている。さきに志乃が訪れた、プールと石の寝台の部屋である。
 「ここは始末の間…」婉曲的な表現だが、何が行われていたのかは分る。披露される昔話は、モノノ怪の因縁の端を担う女将自身の「真」。

『モノノ怪』では、薬売りが後ろ向きで相手の話をきく、というシーンが目立つ。
『しぐさの民俗学』によると、後ろ向きでのやりとりは、相手を拒否しつつ一方で働きかけるという二面性をもつ。引き込まれないようにしながらメッセージを捉えようとする姿勢なのである。
人間のカラダは生死を併せ持つ曖昧な存在だ。そこで、カラダそのものや体を使って行う仕草は、異世界との接点・境界になり得る、と考えられていた。薬売りの姿勢やキモノの背中に描かれた目のマークがそうした意味機能を担う可能性はありうるだろう。

 女将の剛毅で強靭な精神には、しかし艶と潤いは欠けている(演技でですよ!)見事な化粧も、凍りついたように表情をかえない。

“達磨”について考える事は女将にとってタブーだった(海坊主解参照)。だから、話すのをとことん億劫がったのである。思い出せばとっくに忘れたはずの“あのころの自分”に、否応なく還ってしまう。どんなに綺麗な時分であっても、堕胎に関わり続けた過去を思い出したくはない。

 モノノ怪が力を増すにつれて、女将の強靭な精神力もまた、モノノ怪化しそうな勢いで反駁しはじめる。

女将には、女郎たちや宿を、女手一つで支えてきた?という強烈な自負がある。後ろめたさはあっても後悔は微塵もない。「モノノ怪だろうとアヤカシだろうと…」脅しをくらって萎えた気概も、語るうちにどんどん取り戻してゆく。
いっぽうでは志乃の怯えが、人とモノノ怪との対立を深める。すべてがモノノ怪の怒りにつながり、力の肥大化につながる。

 「人助けだよ。なにが悪い?」
 女将がきっぱり言い放つと、その言葉にあらがうように一瞬、部屋の床を覆うほどの達磨が現れるが、箒で掃かれたようにふっと消し飛んでしまう。
 薬売りは“彼ら”を見て驚き、その行方を追って、意識を飛ばす…。

女将も当然、モノノ怪の因縁の一部だろう。が、アヤカシの嘆きになびくような精神の持ち主ではない。互いを殺しあうような否定的なつながりである。
女将の外見が変わり、部屋の造作が変化しても、退魔の剣が肩透かしな反応しか寄越さないのは、女将とモノノ怪の繋がりが因縁の根幹ではないからだ。女将は、お蝶の母親と同じく、自分を正しいと信じ切っている。その信念の強さは、常にアヤカシを打ち消す方向に働いていた筈だ。いわばアヤカシと女将は、利害が一致しないのである。

 永い間、宿が女郎宿であった時分から、世間の厳しい現実を見つめてきた女将・久代にとっては、志乃の身の上話など、他の大勢の女たち、宿を訪れた女たちと似たり寄ったりでしかない。
 “若旦那”とのやりとりは、そんな“つまらぬ話”の典型だ。

 女将は志乃の記憶を、自身の信念を正当化するための武器に変え、モノノ怪へつきつける。
 『どうせ金持ちなら、誰でもいいんだろ…?』  ほらごらん。『バカな娘だよ』こんな親から生まれる子なんて、食うに困るに決ってるんだ。生まれない方がましってもんだろ『なァ、徳次?』

女将の認識(ちゃんと供養してるよ)とモノノ怪の認識(ぜんぜん供養になってないよ)のズレは、一つの部屋のイメージを、真っ二つに裂く。
志乃と若旦那の会話のあとに、唐突に現れた直助の顔は、真っ二つに裂けて画面の左右にある。『どうせ金持ちなら誰でもいいんだろ』という言葉は女将の信念から出ている。志乃を「借金のカタに売られた女郎」の身の上に無理やり当てはめ、非情な殺し屋に非情な台詞を吐かせて「世間知らずの娘の愚かさ」を糾弾し「望まれない子どもは幸せになれない(だから自分のしたことは正当)」に論を運ぼうとする。
だが認識のズレは、裂かれた顔という奇怪なイメージで露呈するのだ。
度々出てくる“捻れた人体”もズレが生んだ歪みのあらわれといえる。

 <座敷童子>は必死に反抗する。まるで“泣きながら訴える”ように。女将の激しい干渉のあいだを縫って、童子たちの思いが割り込む。夢がめまぐるしく展開する。

 自分たちは、生まれるのをひたすら待ち望んでいた、そう童子たちは訴える。
 受けた仕打ちの、哀しい経緯が、女将の記憶とも絡みあって、大勢の母親たちの無念をも映しだす。イメージは女将の過去にまで及ぶ。

 赤い肌の童子がつぶやく「この人、とっても優しそうだ───」。童子がしがみついているのは、若い女将が着ていたものと同じ、銭柄の赤い着物だった。

 「決めた、この人にする」

 女将・久代自身が、子を失う哀しみを、身をもって知っていたようだ。だからこそ、位牌がわりに達磨を納め、豪華な調度で仏間を飾り、手厚く供養したのだろう。
 しかし堕胎が行われたのはまさしくこの部屋なのだ。

 子は親を選ぶだろうか。輪廻転生という言葉もある。わかっているのは、未来まで選べるわけではないということ。選びまちがいといっては身もフタもないが、結局、すべて上手くいくとは限らない、のが現実だと思う。

 「役立たずのお荷物」と断定し、子おろしを「人助け」と称するオトナと、その子どもの哀しみ。因縁ゆえに魂は次の生へと送り出されず、歪んだかたちのまま、供養の達磨へ繋がった。
 達磨が<座敷童子>の唯一の依り代になってしまったのは、カラダを授けるべきオトナから、カラダのかわりにそれしかもらえなかったからだ。そのほかのものはすべて火にくべられてしまった。だから、座敷童子は火がきらいだ。

 人の身勝手と浅はかさが望まれぬ子を孕み、世の非情が命を、縁(えにし)を奪う。
 積み重なった記憶、思い、年月。奪われたが、彼らにとってはまだ全部つながったままだ。それぞれの、あのときのままに閉じ込められていた。
 いや、閉じこもっていた…?

 そこに、人の強い情念が結びつき、モノノ怪と化した。がその精神とは、女将ではない。

万が一、女将と結びついていたら?いやそれなりに結ばれていた。結果的に、宿が続いてきたのだから。
が、もっと強烈に親和・融合する精神の持ち主があらわれた。子どもを産みたくて、しかも女将に匹敵するほど強い精神が。

 同情や倫理を説いて自身の陣地に持ち込もうとするテは、志乃が宿に来たとき思い知ったように、女将には全く通用しない。
 同情心がないわけじゃない。彼女は、世間の道理に従うだけだ。実際は彼女の掟なのだが。

 『おろせば(やっかいをしょうこともない)』

 夢の中で志乃は、ついに女将につかまってしまう。女将には徳次という、価値観を共有する仲間もいる。とにかく彼らは強い。「子どもさえいなくなればすべて丸く収まる」と頑なに信じ込んでいる点において、ひたすら強い。
 が、志乃も本当に強かった。座敷童子と結びつき、その強さはとうとう女将を上回る。

 母の哀しみ、子らの無念を、追体験した志乃のなかに、同じ嘆き、憤り、怒りの念がわき上がる。
 子を産みたいと願う、志乃自身の信念と相まって、怒りは強烈な自己肯定となり、力となってモノノ怪にフィードバックする。

 「子を殺さないで!」

 志乃の袖から天秤が落ちる。夢も臨界点だ。

 前世の因果と縁にがんじがらめになった座敷童子が、膨れ上がった巨大な怒りそのものの姿を晒したとき…
 つぎの事態を予測した薬売りが、剣を構えて立ちあがる。
 志乃を襲うか、屋敷ごと呑み干すか…

 「後は理。理がわかれば、剣は抜ける
 お前の願いは、何だ」

 何だ、と問いながらも、薬売りはほとんど予測している。座敷童子の目当ては、女将も言った通り志乃(の腹)だ。
 「こいつはモノノ怪 アンタの腹をかりて出てくる気でいる」

 薬売りの目的は屋敷(に関わる人間)と、人ならざるアヤカシである赤子らとの因縁を断つこと。彼らを祓い清め、滅することだ。

 だが、赤子の無念を解っても、帯をはぎとるようなやり方では、女将のしたことと変わらず、モノノ怪は鎮まらない。「理」───願いが必要、というわけだ。

 モノノ怪を成したきっかけは、志乃という強い情念の訪れだから、モノノ怪が志乃を求めて襲いかかるその時その行為こそ、彼らの「理」となる。
 「相入れぬ」と知らせねばならない。
 薬売りは剣を構え、間合いを窺う。一瞬が勝負だ。

 そのとき、志乃は…
 自身や他人への嫌悪に、ふつうなら打ちのめされていたかもしれない。が、彼女は、そうならなかった。
 彼女の<産みたい>という意思は、単なる意地を超えていた。

本当に守りたいなにかがあれば人は限りなく強くなれるものだ。珠生という女がただ子猫のためだけにあれほど強くなれたように。
出来た子は産む、志乃はどうやらもともとそういうスタンスの人ではあったようだが、殺し屋の恐怖と子どもを秤にかけられない意識は、もう完全に母親だ。
これを“本来の母親”の姿というのか?それとも“理想の母親像”か?
違う。
“本来”や“理想”は単純ではない。
いろんなお母さんの姿があり、様々な現実がある。前提があるとしても、複雑なのである。
そして信念が立派でも完璧からほど遠いのが、生きる人間の姿というものである。

 「一緒に産んであげる」

 ある意味、信念に酔い、正しいと信じて発した言葉。

薬売りにとっては、モノノ怪が斬れれば「誰の」「どのような」真と理だろうとかまわない。が、モノノ怪を斬らせず、さらに情を与える志乃の行動は、到底、許し難いはず。ヒトがヒトならざるモノになろうというのだから、人間としても度しがたい愚行に思えただろう。

『やれやれ、この娘もろとも斬らねばならんハメになるか…』と思ったかどうか、たぶん後々までも、同じような危険は二度と冒さなくてすむように…と願ったのではないか。
それでも最終的に志乃を行かせた。誰であれ、止められなかったろうが。

 志乃の腹を、流血が下り落ちる。これは流産の徴候でもある。この異変に動揺しない母親はいまい。
 一体何が起きたのか、見つめる薬売りの表情も訝しげだ。驚いたことに、さしあたり危険はないらしい。子どもはどうなったのだろう?
 動揺する志乃の耳に、あの童子の声が飛び込んでくる。こんどは志乃も耳を傾ける余裕があった。もう童子たちが怖くないからだ。

黄色達磨にヒビが入る。「おめでとー!」の唱和。

童子たちは“仲間”の門出を祝福する。それはもうみんなで心から。ほかの子がつかんだ縁を奪おうとは考えていないようにみえる。もしかしたら、志乃の念に影響されて力を得た彼らは、自ら身を引くという損な美徳をも、志乃から貰ったのかも。

 『ぼくは、このひとがいい』

 志乃が前を向くと、赤い帯で、黄色い達磨とつながっている。黄色い達磨は童子となって、志乃と手をつなぐ。

 偶然にせよ必然にせよ辛うじて結ばれ、まだ脆く先の見えない縁を、無条件に肯定する、ということ…。
 黄色童子は、みずから先にたって、親への全面的信頼を、呈示したのだった。

 『あなたが、いいです』

 志乃が後ろを降り返ると、沢山の<達磨>が、それぞれの赤い帯でどこかに繋がっている。

背後は“あちら側”、志乃のいる“こちら”とは異質の世界である。
まだ夢は続いているようだ。血の流れたイメージもその所産らしい。
志乃のように強い人でさえも、やはり心のどこかでは、モノノ怪を産み落とすという悪夢のようなイメージに堪えきれず流産の幻を見たのかもしれない。

 志乃の“前”にある黄色い達磨は壊れてゆく。この達磨に囚われていた魂は、達磨の中から出ていったのである。志乃の腹の子の魂だったかどうかはわからないが…

 他の童子たちはまだ、達磨の姿でつながれている。この縁を断たない限り、彼らは望んでも次の生へ発つことは出来ない。いまや、彼らも理解した。いや知っていたのかもしれないが、自分では断てなかった…

志乃は達磨を手に取り、やさしく撫でる。失われゆくのがモノノ怪であっても、それらを愛しむように…

 * * *

 モノノ怪と志乃との縁(黄色い達磨)は壊れてゆく。
 黄色童子は、モノノ怪<座敷童子>ではあるが、志乃の子の気持ちを知っている。

 “彼”は仲間を睨み返す。この人は辛い道中もお腹を大切に守ってきた。このひとならば親子の絆を裂いたりしない。
 他の座敷童子は冷ややかな面持ちで見返す。黄色の信じる通りならいいが。

 * * *

 <座敷童子>は、志乃がほんとうに子を産むつもりなのかを疑った。志乃が「産んであげる」と言い切ったために、疑いは晴れ、モノノ怪は怒りを鎮めた。
 気持ちを言葉にして伝えるという行為が、モノノ怪の理を変化させたのである。志乃の腹をかりる算段だったにせよ、志乃の子を無事世に送り出したかっただけにせよ、怒りで一時は<包帯鬼>と化したモノノ怪が、穏やかなアヤカシの姿にまで戻った。

この世ならざるアヤカシが、第六感?で志乃の執念を敏感に感じ取っても、その後関わり続けることで、その信念を疑う。関わることは、互いの溝を深める結果にもなり得る。
なぜそんな事が起きるのか?情報を処理する精神に、先入観やら思い込みの条件付けが根深く植わっているからだ。
女将の合理主義に染まっていた<座敷童子>は、志乃の頑張りも、義務の延長にしか見えない。だが、志乃にとって、親子関係は最初から義務などではない。

 「いつもがんばってくれてありがとう。ボク、あなたがいいです」
 そう、伝えた黄色童子の思いに、
 「じゃ、がんばって育ててかなきゃね」といった答えを、童子たちは予期していたのかもしれない。
 『当然じゃん。親なんだもの。ま、育てるだけよしとするか』

 親なんだから、子を育てるのがあたりまえ。
 その“当たり前”が自分たちには許されなかった、という無念。

 <座敷童子>とは、「遊郭の時代に始末された」子どもたちである。
 腹に宿ったその瞬間から、役に立たない、やっかいものと言われ続け、達磨になってじっとしている以外にない命であった。
 役に立たないものは、いてもしょうがない。排除されるのがあたりまえじゃないか。

 ショッキングなほど単純な、この極端な合理性。
 冷酷な大人たちの考え方は、鏡のように反射して、童子の魂に刻まれた。そんな風に思い込んでしまったら、とても女将に逆らったりできない。

得られなかった絆に対する無念の裏にあるのは、“おっかあ”替わりの女将から叩き込まれた自己中心的な考え方。合理的過ぎて、「当たり前」と「しょうがない」の連鎖から抜け出せず卑屈になってしまった魂。
生きるために。やっかい者は排除した。何が悪い、とひらきなおったのが女将だとすれば、優しく素直に親を愛した子どもは、それすらも───薬売りが当然予想したような、妊婦へとり憑くこと「すら」出来ずにただぼんやりと座敷のなかで漂っていたのだろう。

そこへ「志乃」の強い執念が飛び込んだ。「産みたい」と「産まれたい」、吸い寄せられるように両者の執念は因縁を結び、モノノ怪が生まれた。しかしその先どうするなどと童子たちが考えていたようには描かれない。
魂だけの彼らは、ほかにどうしようもないほど前世に囚われていた。因縁を結んだ志乃も、また、似たような境遇である。ひとすじの望みに賭けてがむしゃらに生き急ぐ彼女は、立ち止まれば過去の甘い夢にたちまち引き戻されるのだ…

 黄色童子が問いかける。

 先に進もう。なんとかなるんじゃないのか。

 しかし、一度裏切られた魂は、簡単には信じない。

 その“彼ら”に、志乃は「ありがとう」で応えた。

「私こそ選んでくれて、私のところに来てくれて、ありがとう」

 哀しみに呑まれることもなく、先を一切憂いたりもせずにただその時の思いを、素直に告げた。

命はただ訪れる。出会い、そこから互いに支えあうもの。だから、来た子には「ありがとう」と言う。来たそのこと、そのものが嬉しいから。

嬉しかったら、ありがとうを返し。すまないと思ったらごめんといい。
それが親だから、当然だから、子の権利だからとかじゃなく、感じたら素直に伝えればいい。親だ子だと条件つけず、支え合う人どうしとして。

 黄色童子は仲間の傷の深さを知り、その底にある理を見抜いた。
 そして、孤独で、強く、無邪気な志乃ならではの、無条件の言葉が、<座敷童子>の理を貫いた。

 童子たちが、「仲間」の誕生をここぞとばかり祝福したあの「おめでとー!」が、彼らの理だったのだ。

だから、彼らは全身でおめでとーを言っていたのだ…それが、彼ら自身の願いそのものだったから…誰かにおめでとーと言ってほしかった、それだけだったのだ…。

 * * *

 薬売り、そして志乃が最後に絵の妊婦の腹をなでて終るところが、なんともリアルで切ない。
 お地蔵さまを撫でたり、イノシシ像の鼻を撫でたり、ガラス窓にそっと触れて心で呼んだりする時がある。実際には、自身の記憶にアクセスする行為なのだけど、動作として行うと、届かないものにも届いたような気持ちになれる。もしかすると、「どこかでつながっていて、本当に届く」のかもしれないし…。簡単だが女将たちには出来なかった、本当の供養。

 赤い布(包帯)は臍の緒で、「縁」のつながりを表すベクトル。

 親子の「縁」のかたちが、達磨。

 赤子の形代である達磨は、赤子の立場の象徴。手も足も無い玩具、貧しい遊女の形見。

 ↑ こんなふうに書くと、負のイメージが強いが、画面ではそれほどウツな感じには見えない。あくまでも「子ども」の形代としてかわいらしく、魂の牢獄としてよりも、親子の繋がりの証と無邪気に信じる童子のこころを表すように描かれる。
 志乃の御守が達磨の姿で映ったように、このモノノ怪の領分で、達磨は母と子の願いそのもの。少なくとも<座敷童子>にとっては達磨が「すべて」だったのである。

 黄色童子は、志乃の子のパーソナリティーを備えたモノノ怪。
 逆にいうと、志乃の子の精神がモノノ怪の領分内で操る端末。
 どちらが主だったのか。どちらともとれる存在。

 * * *

 アヤカシはヒトの情念に便乗するが、ヒトの変化で速やかにパートナーシップを解消する。ん〜〜大抵のばあいは〜〜

 * * *

 アヤカシマニア的に言えば:
 モノノ怪<座敷童子>は、カラダの無い赤子の魂(アヤカシ)が、志乃の情念の影響を受けてイビツな童子の姿を得た時の「形」。志乃が来るまでアヤカシは、身動き出来ない達磨の形で、女将のパワーに封じられて目に見えることも無かった。

 そしてついに女将らの情念をも“喰らい”、文字どおり、恨み憎しみの固まりと化したのが、モノノ怪<包帯鬼>。や、<座敷童子>最終バージョンでもいいんだけど。

蛇足ですが「包帯鬼」というネーミングは、座敷童子のDVD特典ブックレットで設定に「ほうたいのびている」と書かれていたところから。傷だらけだから、ホータイぐるぐるなんだ。なんというスタッフ方の親心。目からウロコでした。やさしいやさしい…??!

「ほーたいおに」という書き込みも、どこか で見たような気もするのですが、、、忘れました。。。メモがなくて。。。
こんな処でナンですが…以前、メモ帖を無くしたとき、新宿のモノノ怪イベントのレポと、秋葉原の2度目の展示の、延べ5時間以上に及んだかなり詳細なメモも、丸ごと消えうせました。よってレポも永遠にお流れ…どなたか、板橋区立美術館か赤塚植物園のあたりで、伊東屋の毎度シールがバーコードの上に張ってある、白い表紙の、汚ったない字とヘタクソな薬売りさんや娘お蝶の絵が中途半端に書き込んである、罫なしA5リングノートを、見かけませんでしたか?

 退魔の剣を抜くには条件がある。
 モノノ怪の、「形」と「真」と「理」が揃わねば剣は抜けぬ。

 「真」とは事の有様、「理」とは心の有様。

 「形を得る」とは被疑者の特定、「真」=事実関係と「理」=動機でウラをとる。
 証拠が出揃って「斬る」…なにがどーやって?はさておき。(笑)

 条件付けというシステムが、諸行無常の切なさを、シリーズ全体に醸し出している。

 モノノ怪の個性ともいうべき因果の切なさとは別に、モノノ怪と化したものゴトは必ず葬られねばならぬとする、動かしがたく定められた未来の安堵に似た虚しさ、淋しさ。すべてが消えゆくのは(なんかの歌詞みたいですが)切ない。たとえ未来が幸福であっても。
 モノノ怪のコワさは因果が廻るコワさだが、等しく斬られねばならぬモノノ怪の切なさは、愛も悪行もいつかは消え去る儚い人の世の切なさなのだ。

 ところで、<座敷童子>は<化猫>よりも遥かにアヤカシの主体性が大きかった(つまりは見たまんまということ)。志乃の情念にパワーを依存してはいたが、意志決定は常に童子が中心であった。アヤカシとヒトの関係性は一概にヒト寄りではなかったのだ。
 尤も今回は、胎児がアヤカシであったせいだろう。ヒト同士であるが故に、言葉の遣り取り、コミュニケーションが必要、というわけである。
 アヤカシやモノノ怪の神秘性云々よりも、互いの先入観や接し方しだいで良くも悪くもなる、ヒト同士の関係性という側面を読み取るのが面白い。

 「関係性」というキーワードは見逃せないが、アヤカシ自体が背負う因縁や「ヒトに理解できぬ道理」を探るのも面白い見方である。
 <海坊主>や<のっぺらぼう>ではアヤカシとヒトの距離がほぼ極限まで近く、<大正化猫><鵺>では逆に距離が遠すぎる(アヤカシとヒトの間に直接の関連がほぼ無い)ため、この見方で楽しめるのは現段階では<坂井化猫>と<座敷童子>に限られる。
 とはいえアヤカシの猫も赤子も純粋過ぎて裏表が無く、ストレートに強くても「斬った」後には哀れみばかり残る。

 今後は───もし今後というものがあるなら───憑かれるヒトと同じくらいの因縁を背負い、「斬った」後も共感とザマミロ感を半半に味あわせてくれるようなヒト寄りなアヤカシ、モノノ怪(鵺のような人外っぽさ抜きで)の登場をぜひお願いしたい。

 ここまで読んでくださって本当にヒマ…や、ありがとうございました。お疲れ様でした。もうほんとに、シナプスの一本でも動いたなら本望です。

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