イラスト:Fururuca(ふるるか)

前書き

『昭和電車少年』 より──

 わたしが子供のころ、東京に地下鉄は一本しかなく、夏でも涼しい地下鉄、渋谷─浅草三十分が、謳い文句だった。
 当時の赤坂見附駅に入ると、上下線が分離した二段構造で、それぞれのホームの反対側には闇の空洞が広がるばかりだった。どんな未成線のためにこの空洞があるのだろう、何処へつながるのだろう、と首をひねっていたものだ。
 大阪の地下鉄には、大国町という乗換え駅があり、地下宮殿を思わせる高い天井の空間に、ホーム二本が並列していた。そんな大阪の地下鉄とくらべて、東京の地下鉄にはわびしい感じがしていたものだ。
 わたしは赤坂見附の闇が何時解消されるのか、いや本当にこのホームの反対側に、地下鉄の電車が入る時代が訪れるのか、といささか疑わしい気持ちを抱いていた。

昭和電車少年
by オンライン書店ビーケーワン

 少し長い引用になったが、かの有名な演出屋、実相寺氏の著作で、冒頭を飾らせていただいた。
 スタイル誌のインタビューでは、作り手の方々がキャラクターデザインはポンチ絵に近いと言っている。
 ポンチ絵が根底にあるのなら、たしかに、明治・大正期こそ『モノノ怪』が最も輝き放つ時代であるといえる。
 その世相を、<化猫>の舞台である地下鉄へのオマージュから書かれたこの本の冒頭は、見事に描き出していた。ので、おこがましくも、まるっとお借りしてしまいました。

トキは“昭和”、トコロは大正。

 日本最初の鉄道敷設は1872年。
 その半世紀後、日本初の地下鉄が、昭和2(1927)に開通。完成まで十年以上を費やす難事業であったという。
 「大正化猫」の舞台は、多くの事業者が先を争って地下に販路を伸ばそうとしていた昭和初頭に当たると思われる。

 あれ大正時代じゃないの。や、年代記的には昭和にかかったあたりと推定される。
 小道具の普及面からいっても、時代は昭和に入っていると見ていい。

ちなみにチャリンコが庶民に普及するのは戦後なので、都内とはいえ正男君はかなり恵まれた待遇のような気がする。大正末期当時なら自転車を常備したのは主に郵便局や鉄道局で、官給品の払い下げが一般に出まわったりしていた。

 世相的には大正時代。と、いうのも、戦前の、まだ太平洋戦争の影響が国内に影を落とさないあたり、世相・文化的には大正時代の延長と捉えられるからだ。

 しかし、地下鉄という題材をえらんだこと、それが年代的にいえば昭和であるということ、そしてインタビュー記事で語られた、明治・大正という時代を「生活の厳しさ」(季刊S)で捉えるというスタンスからいって、<化猫>の時代背景が、文明開花の新奇で能天気な部分を既にかなり消化し尽くした「ポスト明治・大正」時代の物語なのはたしかだと思う。

 新しい価値観が浸透しないまま拡大をつづけた結果、西洋の技術はようやく生きた知識として国内に還元されはじめ、これから発展期を迎えようとしていたが、多くの人々の心のほうは変化に対応しきれず、次第に荒廃しはじめていた。

 黎明期としての明治、過渡期としての大正、そして完成期に至るはずだった昭和。この時代は歴史の“どこ”にも位置付けられない。まさに「モノノ怪」にはうってつけといえる。

 外国かぶれが祖国の敵と呼ばれる直前の、最後の文明開花モードの時。
 激動と激動のはざまに、ぽっかり開いた闇の凪の時代。
 文明の津波、戦勝、恐慌、震災、ずるずると続く不況、生活を揺さぶる波を、決して乗り切ったわけではないがとにかく越えて、ようやく辿りついたつかのまの凪、見せかけの平穏。作品を大量に残しながらもプロフィールを辿れないデザイナー、小林かいちを生んだ時代。

 水面下では近代の価値観を持て余す人々がカオスにあえぎ、あえぎながらも、よーやく自分なりのモノを見つけはじめていた。良きにつけ、悪しきにつけ。
 「大正化猫」の舞台となる時代はそういう背景といえる。

 以下、2分よりは長いけどそう詳しくもない解釈をあらすじに沿って書いています。


イラスト:Fururuca(ふるるか)

序の幕

 のっけから、バリ火曜サス。
 「だれかが、陸橋から…落ちる」シーンでスタート。

 なぜか傷なめ防止カラー&真っ赤な上着を着た、愛らしいキジ猫が、事故現場にふっと現れたり。
 ギラつく無気味な画面、陸橋下のトンネルを走り抜けるお化け列車。
 (一見普通にみえるが、どう数えても東西線の2倍以上長い!)といい…初めて観る者を限りなく混乱に陥れるオープニング。
 そして見終えた後には、脳裏に焼きついて離れなくなる光景でもある…。

 このアバンは、物語の舞台となる、晩秋〜初冬の「今」から、約3・4か月前の光景である。
 「お札テロップ」が出てもよさそうだが、「大正化猫」では時制もモノノ怪を形成する重要なファクターのため、極力説明が省かれている。

 紙吹雪舞う福寿駅の改札口から、吸い込まれるように地下へと降りる視点。何よりもまず感じ取ることに焦点が当たった演出に、ワクワクさせられっ放し。
 が、情報量は少なくない。
 二の幕でチヨを怯えさす「猫が群れる赤い壁画」が、冒頭から画面に映り込んでいるのを皮切りに、サブリミナル的挿入画が満載。
 坂井化猫のお家芸(?)、浮世絵風壁貼付けも、しっかり健在だ。

 それにしても、今度の化猫には打ち損じがない。最初にあっさり「やられた」のは、悪玉っぽさをぷんぷんにおわせていた福田市長。残りの乗客は「関係者」6人。囚われの身となったのは「皆さんに関わりがある」

 薬売りの変化も見逃せない。坂井化猫では幾重にも層をなして並べた天秤も、狭い車内にあわせてか、たった一列が並ぶのみ。
 指一本クィッと振るだけで、魔法のように自在に操る。(これは数が少ないせいか?)
 序の幕の興奮はこのシーンに尽きる。

 気になるのは主婦ハルが言った「3・4か月前よね」と、カフェ店員チヨの「(死んだ節子は)モガ…男装の麗人」発言。
 ハルの言葉は時制を示唆していて、モノノ怪の成立に大きく関わる。
 チヨのそれは個人的に引っ掛かるところ。

 髪を切ったスカート姿の女は、たとえば「男に負けない気迫」だとか「男みたいな髪」というような形容になるはずだろう。しかし深読み過ぎの感もある。(このネタは「よもやま」のほうで扱っている。)

ニの幕

 “彼女”の姿はひとりだけ見え、“彼女”の声はひとりだけ聞こえる。
 なんというホラーシチュ。
 人々を閉じ込め疾走する一両電車。画面は雪崩のように移り、静と動が交互に襲う。
 <化猫>は人々を脅迫する。人々の真と理を得て、みずからの真とするために。
 「真を探す、モノノ怪とは───」
 真とは、心のありさま。

 <化猫>は恐喝的な閉所プレイで、人々のホンネをどんどん引き出してゆく。
 吐き出されたホンネは、「痒み」となってその人自身にまとわりつく。本来は見失ってはいけない感受性、心の鋭敏さ───
 「痒み」はキヲクそのもの、といってもいいかもしれない。

 人間側の「真と理」が明らかになるにつれ、モノノ怪がその規模を拡げていく。
 <鵺>ほど老獪でもなければ気まぐれでもない。几帳面でまっすぐな追求の仕方は、若き取材記者・市川節子の資質ゆえか。
 殺傷力はデスノ並、関係者は逃亡絶対不可能。この点に関しては、薬売りもなすすべはない。(貴方がた次第…ですよ、というわけで)

 唯一の解決策───モノノ怪を斬る。退魔の剣を抜くには条件がある───モノノ怪の真と理を揃えねばならぬ。ので、モノノ怪自身の「真を探す」恐喝的閉所プレイを、ちゃっかり利用する、器用な薬売り。
 コバンザメのようにあまりにもぴったりと<化猫>の行動に寄り添っているので、二の幕での薬売りは、モノノ怪の味方に見えてしまう。<化猫>の通訳と言ってもいい位。

 無論、両者の目的は真逆である。
 <化猫>の勝利が先か、剣を抜くのが先か───次々と消えてゆく乗客。力は拮抗し、事態は予断を許さない。

 人は忘れて生きる生き物だ。モノノ怪<化猫>が、自身と他者のあいだにある因縁の“真のありさま”を知る時、因縁そのものに変化が訪れる。
 ハルさんは最後まで疑っていたようだが、正直さは結局、関係者の明暗をくっきりと分けることになる。

大詰め

 <化猫>の真が明らかになり、引きかえに人影が消えた車両。
 そこへ、「降りた」はずの男が一人、舞い戻る。

 大詰めは、最後の証言者・森谷と<節子>との絡みを軸に展開する。

 画面を元気いっぱい動き回る節子、対照的に、多くの場面でそれまで輪郭をつねに保っていた「関係者」たちが、マネキンと化す。大詰めでのマネキンの扱いは、前2話とは大きく異なっている。

 顔のない怖さ。アトラクションを満喫するような醍醐味は鳴りをひそめる。ドクロの花の「痒み」───因縁がもたらす恐怖ともちがう。
 「痒み」が他者との関係性の痛み、互いに奪い合い与え合う怖さなら、マネキンは自分自身のなかにある厄介な毒である。
 自らが気づかないうちに生み出す、無関心という名の暴力。
 知れば、無関心には戻れないはずだ。
 人間よりもはるかに柔軟な精神で、<化猫>は人々を解放する。互いの醜さをさらし合った後、人々が自分自身へ再び関心を取り戻した時。

 <化猫>が目覚めたのは事件から「3・4ヶ月後」に偶然、関係者が揃ってモノノ怪の領分に踏み込んだためだった。
 しかしその間、ヒトとモノノ怪のあいだに横たわる因縁は刻々と変化し続けていた。
 人間が変わるからモノノ怪も変わるのか。
 モノノ怪の変化が人を変えるのか。

 志乃の呼びかけにモノノ怪が応じた時、ヒトが変わればモノノ怪も変わるかもしれない、ということを、薬売りは知ったように思う。
 モノノ怪がヒトをトキハナツ。
 モノノ怪を解き放つのは、薬売り。
 人間は因縁からトキハナタレルことができる。

<化猫>はやはり強かった。市長と森谷を“道連れ”としたのだから。
だがそもそもモノノ怪を生むのは人の因縁なのだから、強さはそのまま彼らと節子の因縁の深さだ。彼らが信念を翻す日は来なかっただろう。彼らこそ<化猫>の一部、モノノ怪の臓腑だ。  <化猫>の爪は、彼らを放さなかった。正義ゆえではない。たとえ結果的にそうであったにせよ。
 だから薬売りはモノノ怪を祓い続ける。

 「故に 剣があり───」

後書き

(前書きより 続き)

 その闇に実際の電車が入るようになったのは、丁度わたしが赤阪にあるテレビ局へ入社した年で、昭和三十四年の春だった。池袋から徐々に延びてきた路線が、霞が関から新宿へと、ようやくその年に繋がったのである。
 地下鉄の歴史と計画にもいろいろな紆余曲折があるから、現在の丸ノ内線のルートそのままに、この赤坂見附の乗換えが想定されていたのではないだろう。東京高速鉄道が虎ノ門─青山六丁目(現・表参道)間を昭和十三年に開業したときから、二層の赤坂見附駅は、片側を闇のままに営業していたのである。
 それは東京高速が内務省の告示による計画路線のうち、同社が免許を取得していた四号線との乗換え駅として、赤坂見附駅を想定していたからである。
 四号線は、新宿から赤坂へ抜け、日比谷から築地へ、さらに御徒町から本郷三丁目へ、そして大塚までと計画されていたのだ。途中の経路は違うが、現在の丸ノ内線と重なる部分も多い。
 それにしても、この赤坂見附の闇にヘッドライトの輝きが交錯するまで、二十年以上もの時間が必要だったわけだ。
(『昭和電車少年』実相寺昭雄 著より抜粋)

<化猫>、マイ通称「大正化猫」解を書くにあたって、今以上に知りたい真と理なんてあるのか?と、すごく悩んでしまった。
ま、無いんですが。無いんですよ。ないんですね〜〜
 既に書かれた感想や解釈に、私自身がもう大満足し切ってしまい、「鵺」解やってる時から考えていた文章も、書いてはボツ、書いてはボツ、書いてはボツ。
 そのうち歴史を調べるほうが面白くなってしまい、なんか資料だけはやたら増え、図書館だの資料館だのに足繁く通ううち、肝心の解はできないまま…
 目新しい解はいらないのである。

 また、「大正化猫」で自分が出した解が、「座敷童子」で己が出した解と、真っ向から矛盾するので(笑)どう折り合いつければよかろうもんか〜と悩んだ…。

 解は出たが、まだまだ書き足りない。
 それでも書きました。なんか見つかるでしょうか。皆々様に響くでしょうか。

 最後に。日本の歴史って、知れば知るほど萎える。歴史の教科書があれほど揉めるのは、ほんとのことを子供に話すとオトナのメンツ丸つぶれだからなんだな。てかメンツにこだわりすぎ、子供に対する信頼なさすぎ。
 たしかに萎える。けどこれが私たちだ。いいとこもいっぱいある。第一面白い。こんなに面白いなんて未来創造堂見てても気づかなかった。これからもどんどん知っていきたい。そういうきっかけをくれた「モノノ怪」に、深く感謝。
 物語を紡ぐあいだ、スタッフの方々はめっさ楽しかったろうと思う。こうして振りかえるほど、見ている私は今が楽しい。深く深く、感謝。

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