「盆の十五日には決して漁に出てはならない!」
幻殃斉が冒頭で披露する<決まり>と<破る者>の物語───
「海坊主」は、タブー(禁忌)の物語である。
今回の解釈は<海座頭>の問答メインというかそれだけです。自分のわからないところだけ重点的に解いているので劇的に偏っています。
「羅針盤に細工しなかったとしても、私もこのアヤカシの海へ連れて来られたんですよ」
「誰に?」
加世に問われて、薬売りは剣を見やる。
『本当に、誰、なんですかね?』
自らも謎めいた存在の薬売りは相棒に心で問う。
物語の唯一の舞台、<そらりす丸>は、とにかく豪奢な船だ。
ちなみにせっかくの好い名前は冒頭に一回きり出てくるだけで、その後一片も言及されない。ちとさみしい。
かつての朱印船。南蛮貿易に使われたということは、内海だけでなく外洋に面した沿岸航行のできる頑丈な船だ。寛永12年(1635)を境に全面鎖国となり、使い途に窮した大型船を再利用したのだろうか。
形はジャンクで、檻のような矢倉(砲台)を有する。
船首は唐(から)様にくるんと丸まっている。現代の洋船を見慣れた眼にはアジアン情緒な異国船といったところ。
しかしそれを差し引いても一風変わった船だ。船上に橋が架かっている。朱塗りの欄干という凝りようだ。後部には展望デッキもある。
楼閣のつくりも、大名の御座舟に勝るとも劣らない威容である。現代の小型観光フェリー規模のはずだが、巨大外洋客船に見えてしまう。
至るところ錦の幟が立ち並び、外も内もメリケン遊園地なみの派手さで塗り飾られて、キャラと背景の見分けがつかないほどだ。
なぜこんなにごてごてしているんだろう?船主の趣味?
(以下、船の細部をちと詳しく書いてみた。必要なければ読み飛ばして構わない。余計な記述もいっぱい盛り込んでいる。)
甲板にはぎっしりと、豪華な楼閣が見える。
なかでも、最大の面積をもつ中央の楼閣は、4層構造でビル並?の規模を誇る。
屋上に畳10畳くらいの巨大生簀がある。ホテイアオイやら水草の間を巨大な金魚が泳ぎ、人々の眼を楽しませてくれる。
生簀だけでなく、楼閣の最下層へ降りると、左右の内壁に沿って、大きな水槽がずらりと置かれている。高価な金魚を、生きたまま売りさばく目的で積載された。
薔薇柄の装飾とストライプ柄の壁紙はまさに水上ホテルのアクアリウム・アート。運搬と鑑賞、移動ショールームも兼ねているようだ。
水槽の並ぶ最下層の空間は小奇麗なフロアで、青を基調とするカーペット?を敷き詰め、洋風のスツールと、中央の台座に羅針盤を置いている。
コンパスはやはり渡来ものであろう。文字盤が人の顔ほどもある逸品で、目立つ場所に無防備に鎮座する。
見上げると、各階は吹き抜けで、遥か頭上にきらびやかな天井画が描かれている。やはり金魚だ。ちょうど生簀の真裏に当たる。
下には客室がひとつ設けてある。客室の襖は扇形で、宵の富士を描いたアーティスティックな造りだ。今回はやんごとない人々、僧侶の源慧と菖源が寝泊りしている。
客室の、真上の壁に、吹き抜け空間を利用した、ひときわ壮麗な壁画がある。
裸の男と女の抱擁、足元に幽霊が描かれた───いわゆる『クリムト風』の絵画は天井つまり生簀の真下まで達し、堂々たる風体で見るものを圧倒する。
客室の向かい側に、各階への階段がある。吹き抜け階段のどこからでも楼閣内が見渡せる。
階上のフロアは吹き抜けを囲む板敷きの回廊が連なっている。建具が設けられ、他の楼閣とも通じているらしい(行き来する描写は無い)。
宿泊客は、板敷きに敷かれた畳で寝泊りすることも出来る。格安なのだろうか、女性の加世が仕切りもなく寝ているのはちと妙だ(笑)。
畳に寝転んでいる薬売りの、背後の海を臨む眺めもおそろしく良い。ぶっちゃけラブホまがいの造りだが、底抜けの開放感は、通常の建物と大きく一線を画す。こどもの城、お菓子の家みたいな感じ。
中央楼閣の屋上には生簀に面した美しい桟敷がある。見事な襖絵には「海のアヤカシの物語」が描かれている。海坊主、舟幽霊、時化の海で遭難する漁師船などだ。
この桟敷で、襖絵をネタに一席披露するのが、自称修験者(山伏)、柳 幻殃斉(やなぎ げんようさい)。
聞き手は「化猫(坂井化猫)」の登場人物でもある、加世。
船の持ち主である西国豪商、三國屋多門。
自称「藩士」実は脱藩者で浪人の、佐々木兵衛。
僧侶の源慧と、弟子の菖源(そうげん)。
そして…「謎の薬売り」
船は、内海(瀬戸内)を通過中、鬼門(北東)にとった航路を、外れてしまう。
船頭の吾郎丸は、夜も星を読みながら航路を調整する。
事件当夜は星が出なかったが、羅針盤さえあれば憂いなし、と三國屋は胸を張る。
ところが、人々が寝静まった後、磁石でコンパスを狂わせた者がいた。
犯人は源慧。
彼が本当に行きたかったのは、地元の漁師さえ近づかない、アヤカシの海「龍の三角」。
過去、数え切れない船を呑みこんできた魔の海域である。
しかし、徳ある僧侶が弟子にさえその真意を告げず、なぜ自ら危険を招いたのか。
* * *
朝。
人々が目覚めると、
「とうに朝だというのに、一向に太陽が出てこない。にもかかわらずぼんやりと耀るい」
日が差さないのもヘンだが、予定通りなら見えるはずの陸も見えない。航路を外れたうえ潮流に流されたらしい。
幻殃斉によると、この辺りの海域で漂い着く先といえば
「決して陸へ帰ってくることは叶わないという…アヤカシの海」
時間も方向も見失ったまま、アヤカシの海を漂う<そらりす丸>。
折も折、スターウォーズじみて度肝を抜く巨大な妖怪<迷い舟>があらわれる。
<戦さ舟>とも呼ばれるらしい。妖怪、この世界でいういわゆる“アヤカシ”。
この“未知との遭遇”的怪物が、浮き足立つ人々をよそに、遥か上空から不気味な鎖を幾本も放ち、<そらりす丸>をがんじがらめに。
決して小さくも軽くもない豪華客船が、宙へグイグイ引き揚げられてゆく。この非常時にもますます意気軒昂、博識を誇る幻殃斉は「柄杓を用意しろ!」と言うが。
迷い舟に乗った舟幽霊は、柄長(柄杓)を寄越せと命令し、
柄杓を渡したが最後、相手の船に水を注ぎ込んで沈める。
…じゃ、柄杓を渡したらダメじゃん。
薬売りが穏やかに突っ込む。「そんなまどろっこしい手合いのアヤカシではない」
ではアヤカシは何のために<そらりす丸>を取りこもうとするのだろう?
やはり薬売りによれば
「仲間になれと 言っている」
アヤカシが引き込むという行為を、人語に訳すとこうなるらしい。正しいとしても慰めにならない言葉である。
そういえば「柄杓」のプロセスはなぜ省かれたのだろう?
風聞に強い幻殃斉も<迷い舟>の大きさには仰天していた。柄杓云々というのは「普通・一般サイズ」限定イベントなのだろうか?
そうかもしれない。見ため同じサイズなら<迷い舟>はつねに、漁船よりもずっと深い怨念を抱えている。<舟幽霊>は、水というかたちで自らの怨念を注ぎ込む。
ここで妙な仮定をひとつ。もし<迷い舟>同士が邂逅したらば、何が起きるか?
仲良く合一同化?敵対行動、一方が取り込まれるまで衝突?など。想像は尽きない。
が少なくとも、同類に対して『柄杓を寄越せぇぇ』とは言うまい。
<そらりす丸>は既に、アヤカシにとって“同類”なのだ。
しかも、<迷い舟>と同等同質、あるいはそれ以上のサイズ?の可能性もある。
だからこそ強大な<迷い舟>が有無を言わさぬ行動に出たのだ。
幻殃斉のにわか厄除けが次々と不発に終わり、防戦一方の状況。
業を煮やした佐々木兵衛が自慢の剣を奮う。がしかし、刃に手応えはなく、残るはワカメか昆布か、ぬらぬらと絡みつく藻、藻。
「あいつらに命はないんです」
祈祷も武器も役に立たない。<そらりす丸>の命運は風前の灯。
我が船かわいさに三國屋多門が、ワラをもすがる思いで泣きつけば、案の定、秘策のありそうな薬売り。
「アヤカシは、暗闇を伝ってこちら側にやってくる」
海坊主は、主に暗い静かな海から現れる。舟幽霊や<迷い舟>は時化た海の暗がりから現れるという。
「このアヤカシどもは、日の光を隠せるほどに、その怨念が 深まって…いる」
「で…ではワシらは、取り込まれる以外に、無いと?」
「さにあらず。光は、空にあるばかりではないのです」
紙風船に火薬を詰めた即席の“閃光弾”を<迷い舟>に放ち見事、アヤカシを追い払う。この光も単なる閃光ではなく、護符と同じ効能があるのか。
<迷い舟>が消えても空は暗いままだ。
人々がアヤカシ談義に花?を咲かせていると、今度は<鬼火>が、うじゃうじゃと出現する。青い小さな炎の群れは炎というより、無重力に浮ぶ水玉のよう。
鬼火の妖しい耀るさの中、弦楽器の野太い響が、<そらりす丸>を揺るがす。
舳先からアヤカシ<海座頭>が、宙を滑るように、わたって来た。
全身水袋といった呈の奇怪な半魚人は、生簀のふちにべたりと座り込む。
またまた蘊蓄の虫が騒ぐ幻殃斉、解説にもリキが加わる。
『あいつは自分の姿が怖いかと問うてくる』怖くないと答えてやれ…などと耳打ちするが
「お前が本当に恐ろしいことは 何だぁ」
と、相手は割れ鐘のような声でいきなり問い始める。
やっぱり幻殃斉の言う事はアテにならないのか(笑)
海座頭は自分の姿を恐れる者、本当に怖いものを白状した者に、恐怖の幻覚を見せたり、海に引き込んだりする妖怪だ。
生死はさまざまだが、出会ったが最後、問答を交わすのがセオリーである。そのためか、今も昔も抜け目のない者がいて
「旅の行く先に何があるかは分からない。それが一番怖い」
「商売こそこの世で一番怖い。妖怪よりももっと恐ろしい」
などと答えると、してやられたとばかりに退散する。幻殃斉の蘊蓄もこの点は的を得ている。
問答のしくみを、とんちの効果と併せてちょっと詳しくみてみよう。
まず問答の流れは
・<海座頭>が問いを発する(恐いものは何だぁ)
↓
・被験者が回答(〜が恐い、〜するのが恐いなど)
↓
・<海座頭>が被験者を精神スキャン
↓
・幻覚を見せて恐がらせる
回答の内容 + 恐怖
{スキャンの結果+<海座頭>のイマジネーション}
<海座頭>は「その人にとって怖い事」を(口頭で)聞き出す。
次に、精神スキャンにより、その人の「おのが心の内」から(口頭で聞き出した内容に関連する)恐怖のイメージを、引き出す。
ちとややこしい話だが、このプロセスは海座頭に遭遇したなら絶対に踏襲されるのでしっかり把握してほしい。口頭で聞き出されたモノゴトがただ怖い幻覚になるのでは無い。ここを落とすと『源慧は<虚ろ舟>が怖いから幻覚も<虚ろ舟>が出た』という単純な結論で止まってしまい、解釈的に面白くない(大笑)。
ちなみにこの流れで来る限り<海座頭>はテレパシーのような力を持っている筈だが、問答は常に口頭でやりとりする。なんなんだか笑
恐怖について問われる時、人間の思考は便利なもので、
・過去に最も怖かった事
・今怖い事
・将来出くわすかもしれない恐怖
あらゆる恐怖のパターンを、本人のイマジネーションが及ぶ限り、一瞬で想像できてしまう。
妖怪に脅されながら恐怖について考える。問答は恐怖のコンボだ。
<海座頭>は人を極限状態に追い込み、ありったけの恐怖のイメージを抱かせる。
そのうえで、精神を探り、適当なイメージをえらびだす。回答の内容と合わせ、<海座頭>自身のイマジネーションをスパイスに加え、恐怖のリメイクを施してひとつの幻覚に仕上げるのだ。これまたなかなかアーティスティックな作業である。
問いの答えを<海座頭>は恐怖版にリメイクする。
知恵者は、リメイクされないよう仕向ける。
一連の流れの中で、回答と恐怖とのつながり(+印の部分)を断てばよい。
「旅の行く先」は、海座頭に殺されなければ知ることができる。『知るのが怖い』というニュアンスがミソである。
怖い未来を見せるには命を助けねばならぬ、というパラドクスを突いたとんち。肯定的なイメージをわざと否定的に表現し、最終的に望みどおりの結果を手にする点は落語の「饅頭怖い」とも似ている。
「商売」「人間」「人生」といった回答も、基本的には同じロジック。
ただしこの種の回答には、海で命を落とした亡者の化身と云われる海座頭に鎮魂や命乞いの意味が込められている、かもしれない。
「お前よりも俺は酷い目にあってるしこれから逢うんだよ、だから祟ってくれるな」
と、いうわけである。
…というか海座頭はどちらかといえば祟り目的で出てくる筈。なのに、答え方次第でわりと単純に消えてしまうくらいなら本当に、何しに出てくるんだか…。
ま、結論を言えば、通常版の海座頭には人間の逃げ道が用意されている。
しかしアヤカシの海の<海座頭>は<迷い舟>同様、セオリー通りではない。
まず先触れの問い「俺の姿が恐いかー!」が省かれた。が、ここは海座頭が主導権を握るためのオドシで、極限状態に陥れる効果は絶大だが、意味は無い。(たぶんシナリオ上時間も必要もなかったのだろう。)
次が<わかもと版・海座頭>問答のメイン部分。
(声を若本規夫氏が当てているのでこう呼ぶ)
「お前が本当に恐いものは、何だぁ」
脅しに屈しない勇気があれば、落ち着いて回答すれば、幻覚を回避し得るはずだった…通常版ならば、だ。
ところが<わかもと版>には、前述のような、単純な迂回路は無かったのだ。
ゴマかそうとすれば本当に怖いことを白状するまで、噛んで含めるように問い直してくる(三國屋多門との問答を思い出してみよう)
…そして、もし嘘をついたならば…
迂回路が無いと、少なくとも幻覚の恐怖から逃れるすべはない。
なぜ無いのか?
琵琶を抱えた三つ目の半魚人は、見た目がそうであるように、問答もまた物語の展開を暗示している。
しかしながら、問答それ自体は、物語とも直接関係しない。
では<わかもと版・海座頭>はなんのために出てきたのか。
いぢわるするため。
なんのためのいぢわるか。
<本当に怖い光景>を引き出す、前フリのためだ。
このアヤカシが訪れて去る過程から、ポロリとこぼれ落ちた副産物こそが、薬売りの探索を、人々の思索を、物語を、前に進ませる重要な手がかり───件の<虚ろ舟>となるのだから。
* * *
<本当に怖い光景>=<虚ろ舟>。関係性はいずれ明らかになる。
問答の中身をさらに詳しくみてみよう。<海座頭>が二の幕で果たした役目がわかる。
迂回路があれば、幻覚を回避できる可能性があった。問答を交わすメリットはむしろ人間の側にあったのだ。
が<わかもと版・海座頭>の問答に、逃げ道は無いのである。
加世 「…ウソをいうとどうかなっちゃうんですか、あんなふうに(佐々木を指して)」
幻殃斉 「あの様子から察するに、おのが心の内の恐怖をまざまざと見せられるのだろう」
加世 「ええ〜っ?!じゃ、ホントのこと言っても嘘ついても同じじゃないですかぁ?!」
その通り。コイツは何がなんでも恐怖の幻覚を見せたいという、通常版とは別の意味でとても単純なアヤカシだ。出会ったが最後、恐怖はストレートに頭に叩き込まれるしかない。
コイツは人々の「心のうち」を、見出しつきのページをめくるように易々と拾いあげてしまう。
しっかり者で芯の強い加世が、
「幸せな結婚して、カワイイ子どもとかできて…でも、そんなこれからのこと何も経験しないで死んじゃうーってことが、いちばんコワイのかな…(チラ)」
と、回避パターンの新境地のような(アタシは怖いことなんか、ナンにも思いつかないのよ〜〜っ、怖がらせようとしても、ナンにも出てこないんだから〜っ!)、見事な答を返したにもかかわらず、想像だにせぬ恐怖に呑み込まれてしまったのも、人間側が何をどう考えていようが、幻覚にはまったく問題?ないからだ。
かりに自分の未来に毛ほどの疑いを抱いてなかったとしても、生まれる子どもが「カワイイ」とは限らないだろう、という…
嫌がらせは無限大…。
言うまでもなく最も深刻な恐怖は、佐々木兵衛であった。
「この世に怖いものはない+(本心では過去に辻斬りした相手のことを考えると怖い)→斬った亡者のイメージをベースにしてみました」
しかしイジワルという点では、幻殃斉の「饅頭噺」も負けて?ない。
饅頭が怖いはずはない。
彼もべつにウケ狙いでボケかましたわけではない。幻殃斉は<海座頭>が、本音も嘘も、「幸福」という漠然としたイメージさえ、手酷い幻覚に仕立ててくるのを見てとった。
そこでごくありきたりの、面白くも何ともない、恐怖とぜんぜんつながらないモノならば、と考えたのだ。しかしやはりイジワルされてしまった。
饅頭に何が入っていたのか、ま、魚類を孕まされたり、地獄の亡者に襲われたり、怪物に喰われたりするよりはマシだったろう(「心のうちが問題なれば…」)。
最後の薬売りの問答についてはどうだろう。
「この世の果てには、形も真も理もない世界がただ存在している、ということを知るのが怖い」
『〜ということを知る/のが怖い』のセンテンスが入っているので、一見ダメージ回避パターンのようにみえる。
が、他の客の問答でわかる通り、<わかもと版・海座頭>では、
・真実も、虚偽も
・抽象的な観念(幸福)も
・具象的な概念(饅頭)
…も、いずれも等しく、わけへだてなく「恐怖の幻覚」につながる。回避は無意味だ。
いや、まだ試していない観念がひとつある。
「無」だ。
薬売りは、冷静に観察を重ね、最後は自ら実験台としてアヤカシと向き合い「無」を提示して見せた。(饅頭まで試してくれた幻殃斉のおかげでもある?)
因果も、縁も、名も、姿も、何も無い世界、が、ただ在る───これは無、である。
結果、やはり「当意即妙な」幻覚が返された。
これで<海座頭>がほんとうに回答を選ばず、あらゆるイメージから幻覚を引き出すと確信できた。そして坊主達にバトンを渡すのだ。
『おのが内の恐怖をまざまざと見せられる』
やはり幻殃斉の言葉がヒントになった、かもしれない。
薬売りは<海座頭>の幻覚が、「おのが内の恐怖」を必ず引き出すだろう、と確信したのである。
誰の恐怖か?
まだ幻覚の洗礼を浴びていない二人───菖源、は、その後の展開で、すぐ除外される。
つまり、残る僧侶、源慧の恐怖である。
なぜ、彼の恐怖を引き出す必要があるのか?
無論、モノノ怪の「真」と「理」を導き出すためだ。
このあたり、薬売りが源慧の「恐怖」にアタリをつけた理由はよくわからない。まだモノノ怪の形も真も理も不明ながら、潜伏先だけは分かっていたようなもんか?
薬売りだけは<そらりす丸>内部で既に、謎のアヤカシをいくつも目撃している。
画面だと、奇怪な姿をしたアヤカシどもの、こちらを脅すでもなくただただ怯えるようすから、恐怖が何か重要なメッセージであることは、感覚的に類推できる。
虚空太鼓も相手の恐怖を誘うアヤカシである。
薬売りはまた、源慧が航路変更の犯人と知っていたようである。いつ知ったのかわからないが、たぶん菖源と同じく事件当夜、羅針盤周りでの「おかしな」動きに気づいていたのではなかろうか。
だから彼は最初から、地位も名誉もある「肝の据わった人格者」がとった「おかしな行動」を、アヤカシと───彼らの怯えと、関連づけていたのだろう。
さらに<海座頭>の登場が、薬売りのアタリを核心へと近づける。<海座頭>はおのが恐怖(タブー)を問い、つきつけるアヤカシである。そして<そらりす>は既にモノノ怪の領分と化している。<海座頭>が<そらりす>に引きつけられたのなら、<そらりす>に隠された恐怖を問い、暴きに来たのである。
あるいは<海座頭>そのものが、<そらりす>に憑いたモノノ怪の一部か、モノノ怪が招き寄せた“既に同類”の可能性がある。<海座頭>はモノノ怪の恐怖を問い、見せねばならなかった。 もしそうなら、モノノ怪がそれを望んだためだ。薬売りがそこまでアタリをつけたかどうか。巨大な<舟幽霊>が敗れたことで、モノノ怪は何らかの目的が果たせず、<海座頭>を呼び寄せたとしたら、恐怖が問われ見出されることで、その目的に再び近づけるはずである。
薬売りは<舟幽霊>の直接攻撃は退け、<海座頭>の挑戦は受けることにしたのかもしれない。万一そらりす丸に薬売りが乗り合わせなかった時を考えれば想像がつく。モノノ怪は同類と“一つになりたい”のであり、隠れた恐怖にアクセスすることで目的が果たせるのならば、その恐怖こそが=モノノ怪の同類、なのである。
魔の海域と呼ばれるような場所へ、地位ある人間が、内密に、身の危険を冒してまで行こうとするのは、相応に深刻な理由があるはずだ。
そのうえ源慧は、他の乗客よりもアヤカシに対してずっと鷹揚、というより無関心である。身の危険を省みるようすもない。
高僧ゆえの沈着さだろうが、魔の海域へ導いた張本人である。恐怖を超える目的が隠されているのか。
アヤカシの海へ入滅でもしようというのか。そんな高僧を小さなアヤカシは一様に怖れ、大きなアヤカシは彼の力に挑んでくるのか。彼の力と融合したがるのか。
どうやら彼の「恐怖」がカギになるようだ、というわけである。
<海座頭>の幻覚が、相手から恐怖のイメージを必ず引き出すなら、問答は、源慧にとって「おのが恐怖」を再認識する機会となろう。
身の危険を省みない何らかの決意は、恐怖を「問い直す」ことで揺らぐだろうか。それとも一層強固になるだろうか。
薬売りは、源慧が語らぬ心の奥底を、恐怖のかたちで引き出すであろう<海座頭>に賭けたのだ。ま、その価値はあった。
では、そのしくみとは?
<海座頭>の問答は、まず源慧の「何が」怖いのかを明らかにする(源慧の性格から嘘はつかないはずだ。万一嘘をついたら、賭けに負けたことにはなっただろう)。
そして、<海座頭>が、回答に対して「どのような」幻覚をみせたかが判れば、「なぜそれが怖いのか」を知ることができる。
「なぜそれが怖いのか」を知る…薬売りのアタリが正確ならば、それがモノノ怪の「真」と「理」となるはずだった。
しかし。<わかもと版・海座頭>はどんな回答にもただイジワルを返すだけじゃあなかったか?迂回路もなく、問答を交わすのも意味が無い、と。
何をどう答えようと、恐怖が幻覚を見せる。それだけのことではないのか?幻覚の内容についてたとえ源慧が正直に語ったとしても、一体なにがわかる?
実は、あの<海座頭>がえらびだす恐怖のイメージにはひとつのパターンがある。ただし、モノノ怪の真と理を完全に明らかにするには不十分だったが。
冒頭でこの物語は「タブー」の物語だと書いた。
「タブー」はもともと、正常と異端を峻別する観念だった。それが、宗教的な「正統」「異端」という観念を経て、社会的制裁を伴う禁止の意を担った。
どの時点、どの事項においても、「掟」と定められた基準に違反したら、相応の「仕返し」、制裁が行われる。
人の精神がタブーを設けたのはひとえに生き延びるチャンスを増やすためだ。生きるか死ぬか、その基本的な境界線がタブーだった。時代が下るにつれて社会的制裁の意味合いが増したが、いずれにせよ「いま在る社会で生きづらくなる」のは非常に「怖い」ことだ。
人は、何かを選択するにあたり、様々な予想を、事前にイメージする。予想の中には悪い予想も必要だ。悪い予想がなぜ悪いか考えれば回避できるからだ。
常に予想し続けることはあらゆる選択に必要な作業だが、考えてばかりでは先に進めないので、ふだんは「タブー」として心の奥にしまっておく。
タブーに触れると自動的に停まるようにして、時間のムダを省いている。心のヒューズのようなものだ。
そして、しまい込まれた「タブー」は、忘れ去られる。
タブーの前で人は恐怖を感じ、考え直す。選択を選び直す。そして生き残ろうとする。
タブーによる恐怖。
<わかもと版・海座頭>が提供?するのはまさにこの種の恐怖なのである。問答は相手のタブーを意識の表面へ呼び戻し、幻覚はそのタブーを侵すイメージとして返る。
タブーはふだんは考えるだけ無駄だ。考えたところで先に進めないからだ。
金儲けでも何でも成功したい時には、失敗のイメージは避けるものだ。
幸福になりたい女の子はふつう幸福のヴィジョンだけを夢見る。夢見る女の子でなくたって、自分の将来に不幸のヴィジョンは浮かんでも、理由が伴わない限りは、わざわざ立ち止まって真剣に考えたりしない。
ましてや日常の暮らしで「不味い饅頭」のことなんざ考えない。むりに考えたら食う気が失せる。だいいち想像しようにも思いつかない、と多くの人が言うだろう。
タブーはたしかに、古い根源的な概念の一つではあるが、決して非日常の概念ではなくほとんどが単なる常識、セオリーにすぎない。普段は気にも留めない空気のようなものだ。
そう。普通は。タブーの機能はきわめて社会的だが、基準は個人的な時もある。
人は、考えたくないことを無理やりタブーに押しこめる時があるのだ。そうした秘め事は、いったん考え出すと心が埋め尽くされてしまう。
もっとも端的なのが佐々木の幻覚だ。自分が殺めた相手について考えることをタブーとして、彼はようよう自分を肯定してきた。が、ひとたび亡者を意識したが最後、心を侵蝕し、恐怖が心を喰らいつくす。
心の奥底に隠され、しまい置かれたタブーが噴出した時、それは恐怖に変わる。
<わかもと版・海座頭>の幻覚に打ちのめされるという事は、己の抱えるタブーに触れ、己の悪い予想に打ちのめされるということだ。「おのが内の恐怖」とはその人自身が抱えるイメージに他ならない。
こんなふうにありきたりの事でも、パターンに当てはめて分かるのは、大海原に浮かぶ孤島の影のような、辛うじて見える切り離された影だけ。
おのずから経験も基準も異なる人間の、狭間に沈んだ細部を知るには「おのが内」に直接問うしかない。
時に人は自分自身にすら、細部を問い直す以外にないときもあるのだ。
いよいよ解釈も大詰めにきた。<海座頭>の幻覚作用とそのパターンから、
・本当に怖いもの=「虚ろ舟」
・なぜそれが怖いのか=「虚ろ舟について考えることは源慧にとって50年間タブーだったから」
という事がはっきりした。
しかし…
はっきりしたといっても…
蓋つきの丸太舟がごろんと現れて、薬売りも呆れたのではなかろうか。
『じつにめんどくさい、モノノ怪どもだ』
アテが外れるとはこのこと。なぜか目に見えるかたちで出てきたのも、有り難いのやらそうでないやら。
虚ろ舟は祈りのアイテムでもあり呪いのアイテムでもある。ストレートに言うと、中に人を詰めて流す舟、だそうだ…。
源慧は自分の妹・お庸が、50年前この舟に乗って流された、と語る。
彼女の怨念がアヤカシを集め、海を魔境に変えたのだ、と。
<そらりす丸>の内部が真っ赤に染まり、何もなかった空間から丸太舟がひきずり出されるさまは壮絶で、意味深長だ。
<海座頭>は去ってしまった。舟の蓋の内側からはなにか木の壁をひっかくようなカリカリという音がする。
暗い空には、<虚ろ舟>の出現と同時に現れた、謎の巨大な一つ目玉が<そらりす丸>を凝視している。舟との関係はいかに?
<虚ろ舟><一つ目玉>───モノノ怪の「形」が、来た。
<虚ろ舟>をまのあたりにした源慧はうろたえ切っている。無理もない、舟の姿は彼にとって文字通りタブーだったのだ。
薬売りの方をちらちら窺いながら
「虚ろ舟をひらいて、屍を丁重に弔うべし!」
と口調だけは威勢良く断ずる幻殃斉。しかしことモノノ怪に関して、この男の勘の良さは既に知れている。
自滅せんばかりに怖い怖い、と叫び散らした菖源は、<虚ろ舟>の中身について正直な感想をぶつけるが、あくまでも師匠に随従する意思は変わらない。
薬売りの傍にいれば無敵の加世は勿論、源慧と<虚ろ舟>をかわるがわる恐怖の面持ちで見つめる三國屋多門も、まだ生還の望みを捨てていない。やれる事はなんでもやる気でいる。
ひとり佐々木兵衛だけが、折れた刀を手に己の世界へ完全に閉じこもっている。会話も聞こえているのかいないのか、振り向く気配もない。
薬売りはというと、幻殃斉の意見に異論も無いが、かといって同意するふうでもない。
加世は退魔の剣を思慮深くみつめる。
「それはモノノ怪の真ではないということ…」
ならば真は他にある。だが、どこに?
<虚ろ舟>の姿は、<海座頭>が源慧の心のタブーから引き出した恐怖の写し、コピー、ハリボテである。
が、他の乗客とちがい幻覚ではなく、眼に見える姿で現れた。
なぜそうなったかは、物語としては説明できない(と思う)。これは幻覚の延長、いぢわるパワー全開の産物だという事を忘れてはならない。
中にある「何か」───源慧が身を震わせて怖れる「何か」を目の当たりにすれば、恐怖がピークに達し、プチッと切れてやばいことになったりしないか?
いや、幻覚は所詮イマジネーションを超えない。ハリボテが現物以上の恐怖を示すことはないだろう。いずれにせよ中はあらためるほかない。舟にしまい込まれたものこそ恐怖の根源の姿だ。たとえコピーであるにせよ。
(放心状態の佐々木を除いた)皆が力をあわせ、マンホールみたいな取っ手に角材を差しこんで、巨大なフタを開けようと試みる。が、人々の力ではびくともしない。
加世が助けを求めて薬売りを見る。
退魔の剣は何も警告しない。
まてよ?
<虚ろ舟>は元来開かずのフタだ。
そしてこの<舟>は心の投影であり、加えて、モノノ怪の真ではない。
真がそこに無いなら、開けても中には。
「そうか…」
中は(ほぼ)空だと確信した薬売りが、御札のマシンガン投げを披露しフタを開陳。やはり頼りになるのは、この人…?
護符の赤い瞬きは、エネルギーを力仕事で駆使したためか、はたまたアヤカシの邪念がまとわりついていたためか、それとも。
ま、ようやくフタが開かれた、と思ったら、今度は、
「影も、形も…」
「骸すら…無い!」
中でカサカサいってたのは、舟を引き上げる時に貫いた、アヤカシ鎖の擦れ合う音?
「妹君がモノノ怪なのでは、ないようだ」
ここで幻殃斉が「やはりな…」て言っていたら、凄い人認定だったのに(笑)
度重なる恐怖のコンボにすっかり神経をすり減らし、ついに得意の解釈も枯れ果て、背中を丸め座り込む幻殃斉。以後、彼は完全な聞き役に回ってしまう。
勿体無いとは思うが、元来があまり出張らない学者タイプの、柔軟ではないが繊細な人物なのだろう。好奇心強そうだし、「青の世界」では加世と同じように、源慧の話にしっかりと耳傾けていたし。
さて、少なくとも<虚ろ舟>の<中>に、真はない。
が、モノノ怪の領分は既に<そらりす丸>を取り込んでいる。
では、本尊はどこに?
* * *
薬売りの頭の中には、モノノ怪までの見取り図がすっかり出来ていたにちがいない。
がまだ、道しるべが足りない。
「今度は測るだけでなく、手繰りよせてみようかと…」
要するに、過去を無理矢理語らせようという算段であろう。
天秤がモノノ怪と人との領分の際に「立つ」。モノノ怪が干渉すれば揺れ傾いて知らせる。
そして、語る内容の真偽のほどは、退魔の剣が(それなりに)教えてくれる。
で、かなめは、薬売りの催眠術か?
モノノ怪化するくらいだから「じつにめんどくさい」。タブーの内容は、やっぱり口頭尋問に頼るしかないのだ。
「モノノ怪の真を、話して…いただけますか?50年前のこの虚ろ舟と、妹君にまつわる事々…」
* * *
ついに源慧が語り始める。
出生地の島と、荒れる海のこと、妹・お庸との秘めた情愛、その禁忌に怯えながら、僧侶となり島を出たこと。
再会した妹と死出の別れをしたが、その死を下したのが他ならぬ自身であり、その象徴が<虚ろ舟>だったこと、お庸は愛ゆえに兄のかわりに、みずから海を鎮めるための、人柱と化したこと…
楼閣の最上階の絵巻物は、源慧の物語でもあった。(その真ん前で幻殃斉が一席ぶってたんだからな…全く!)
<そらりす丸>に憑いたモノノ怪の領分、この世界の“裏側”、そして催眠状態の源慧の精神世界でもある「青の世界」だが、その根っこは、三國屋多門の情念のようだ。<海座頭>の幻覚にやられたおり、しみじみ吐露したとおりの「船の造作を変えた」ほど強烈な商売欲である。
「青の世界」での三國屋は、言葉も全く耳に入らず、幻の金魚に魂抜かれそうな位の忘我自失。
どうやら<そらりす丸>を通じて催眠術の影響を受けたようだ。源慧が自身の信じる“真”を語るあいだ、多門も己の“真”を見る。正確に言えば、己の信じる“真”で<海座頭>のそれとは真逆にはたらく幻覚といえる。
商人はこれまで「身のほど」を守りタブーの限界を越えずに生きてきた「常識人」と見うけられる。そのアイデアや方法自体も、江戸の感覚としてそれほど突飛ではなかろう。
廻船とよばれた海上貿易が流通の主役をつとめ、海産物でも酒でも回船問屋の腕しだいで自在に運ぶことができた時代、金さえあれば何でもできたのだ(但し魚を生きたまま輸送するには現代でもきわめてデリケートな技術とでかい設備が要る)。
それにしても甲板を楼閣やら装飾やらで埋めてしまうのは明らかに構造的に危険ではある。
また<そらりす丸>にはまともな帆も櫓も見当らない。本当に無くては航行できないので(実はモーター駆動という噂もあったりなかったりするが)、これら───ごてごてした内装も含めて、装飾過多にみえたものは、多門を出発点とした、アヤカシ的な情欲の影響だったかもしれない。
とすると、どこまでが虚でどこまでが実か、これまた境界がわからなかったりするが───三國屋が商運をかけて金魚を運ぼうとしていたのは紛れもない事実、とみてよかろう。
度すぎた情熱から、分を越えて船の造作を変えたとき、三國屋の情念もまた分を越えた。その情念はなかばアヤカシと化していた。
しかし時ここに及び、“場”を支配するのはモノノ怪だ。
「青の世界」に不気味な黒い影が揺れる。
長い尾をひく黒い魚の影。───最初の「おそれ」
「このまま生涯を、得体の知れない己の心に怯え逃げ続けるよりは、柱となろう…」
白い指が、源慧の背をつと撫でると、ピンク色の花の泡が、身体からたちのぼる。
私はこの情景が一番妖しく一番怖い。何度見てもゾクッとする。
源慧の虚実が渾然一体となって、空に昇る───その空は「床」ときてる(逆さま描写だから)
ピンクが多門からも昇ってるのを見て、さらにゾクッ。
「怖かったのだよ。私は恐ろしかった」
イカのような足と長い頭を持つ、一つ目の怪物のシルエットが、黒い魚の影を追い始める。
───二つ目の「おそれ」
新たな“影”は源慧の脱ぎ捨てた頭巾のかたちに似せてある。地位を示す「冠」もまた源慧を追いつめたものの一つである。がそれは最初に源慧自身が望んだものだという皮肉。
「虚ろ舟に乗って仏になることなど、私にはとても出来ないとわかったのだ。
そんな私の意気地のなさ、情けなさを、お庸は優しさだと言った」
すべてを赦すようなお庸の笑顔から、ついに源慧は「逃げ出す」
そして鎮魂を祈り修行に励むが、お庸は…
源慧が語る間に、いちど開いた<虚ろ舟>の蓋が、ひとりでにどんどん閉じてゆく。
<虚ろ舟>は単なる幻覚だ。<中>にはなにもない。隠す意味は無いのに、なお閉じようとする。
無意味であるのに、なお、空の中身を隠そうとする。
<虚ろ舟>のかたちは、源慧の心の忠実なコピーでもある。虚ろになってしまった心、虚ろなありさまを隠そうとする心。
巨大イカがついに魚の影をとらえる。
おそれがおそれを捕らえ、喰らう。そのさまを、薬売りも見ている。がまだ、剣は鳴らない。
「…ちがう」
「え…違うって何が?」
お庸さんは可哀想だ。お庸さんがモノノ怪という、源慧の言い分が違うのです。
「この海に渦巻くモノノ怪、それはお庸さんの怨念ではない」
<虚ろ舟>について考えることは50年間ずっとタブーだった。
なぜなら妹を愛した苦しみ、愛する妹を失った悲しみ、その妹を死なせた自分の罪の重さを、見つめるのが辛かったから。
そしてその妹がモノノ怪となり祟りを引き起こしているから鎮魂のためここへ来た───源慧はそう語った。
しかし、お庸はモノノ怪ではない。
源慧の心のコピーから、お庸の姿は出なかった。
そんなものは、はじめからないからだ。
想像できなかったというより、該当するものが、最初からないのだ。
(そして、何も無いことこそ源慧を最も戦慄させると<海座頭>はわかっていたのだろう。)←本当か?
お庸がモノノ怪などではないことを、源慧自身が、どこかで、知っていたのだ。
では、<虚ろ舟>にまつわるタブーとは何だったのか?
過去を悔い改める姿勢は決してタブーではない。
過去を改め、修行に励み、今の地位を得たならば、それは辛くとも己の過去を、タブーなどとして放り出さずに、きちんと見つめ向き合った結果だ。
いっぽう、お庸はモノノ怪ではなかった。彼女の白い影が「青の世界」に頻繁に現れるが、天秤も剣も反応しない。楼上で佐々木がリアルな姿を目撃したらしいが、それすら現世に残した影のようなもので、源慧の心象イメージ以上のものではなかった。
そして<虚ろ舟>の<中身>でもなかった。
それでも源慧は、彼女がモノノ怪だと信じ恐れていた。
なのに、そうで「無い」こともどこかで「わかっていた」。
そうでないとわかっていたのに、モノノ怪だと思った。いや、思おうとしていた。これは偽りだ。だが、一筋縄ではいかない。
彼自身も気付かないうちに、無意識の偽りが、起きている。
語られた罪のほかに、隠された罪がある。未だ源慧が向き合おうとしていないその罪こそ、タブーなのだ。
「そういえば源慧殿、その手で隠されているもの、どうされた?」
兄妹があった。兄の代わりに、妹が死んだ。兄は罪を感じ、悔いた。
このどこかに、お庸をモノノ怪と思い込むほど(それこそ「お庸さんが可哀想!」だ!)タブーとして忘却の彼方に追いやった、何か、が隠されている。
が、それが、
「妹を愛した苦しみ、愛する妹を失った悲しみ、その妹を死なせた自分の罪の重さ」
の、どれでもない、としたら───それはいかなるタブーであるのか?
当人の口から語られるほかに、薬売りとて知るすべは無い。
名も無い少年がいた。
<ビンボーで退屈で不自由な島の生活がすんげぇヤで、人が用意してくれた「出家話」にとびついたんだよ。たぶん島から出られるなら何でもよかったんだ。
小心者で単純で脳天気なガキが、狭い世界を抜け出して、知らねぇ世界にとびこんだ。修行?まあまあ。俗世との「かかわり」のがもっと面白かった。
いい感じ。
そんな折も折、島から帰還の督促だった。用件は「人柱」…「冗談じゃねぇ」と思ったね>
だが少年は源慧となり、青年となり、既に世間のなんたるかも知ったが、知り尽くすというほどではなかった。諸々考え合わせると、到底逃げおおせると思えなかったのだろう。
そしてお庸。
ほとんど存在すら忘れかけていた妹。
キレイになっててびっくりしたけど、所詮は島の漁師村の娘。
ありふれて平凡な生活に埋もれた、何の価値も無い人生の中の、男よりさらに不自由な、女。
いや、ある意味特別な女だった。
巫女装束の胸に燦然と輝く、小さな縫いとりに込められた異端の徴。それは、名に冠せられた以上の“非凡”を物語る。
「あの兄にしてこの妹あり」の、ド根性。
そして、愛情。
「お庸はずっと、兄様のこと、お慕い申し上げておりました」
人が知れば、道ならぬ、と後ろ指さされるような、異端の愛。
(といっても、広義の肉親愛・同族愛の幼い表現にすぎないものだった、かもしれない。)
ともかくそれも兄を驚かせた。妹の全てが、兄の全てを驚かせた。
ようやく想いを告げたのち、妹はほっとしたように言う。
「あ… なにか不思議と、とても生きた心地がします」
生きた心地。
死ぬと決めて生きた心地。
死は例外無くタブーだ。生きた心地ってのは欲があって、肉に血が通って、自由に走って楽しく暮らして。それ全部止まったら死ぬ。なのに、死んで生きた心地?
命をかけて愛するということ。そのために欲もタブーも捨て去るということ。
命がけで愛されたということ。
男の心に浮かぶ驚き。
僧侶という肩書きをしょってはいたが、男には、女の真似は到底できなかった。
平凡がイヤで、出世したくて、楽して生きたくて島を出た自分には。
虚ろ舟の恐怖に、助かりたい一心で、それ以外何一つ考えられなかった自分には。
他人のために自分を捨てるなんて。
仏の道にそれを「解脱」という。
如来がこの世に現れることを出世という。
また悟りを得る「出世間」が、今の出世の語源だともいわれる。
平凡な女だと思っていたお庸が、自分が捨てた島で。出世。如来。解脱。
覚えた言葉が、頭をめぐる───
お庸の気高さに触れ、己の中に見出した、醜い心。
彼は己の心の醜さを恥じた。
そして、自分よりよほど気高いお庸を、畏れた。
「畏れ」には敬い、尊敬と畏怖、恐怖がある。「おそれおののく」という。
───これが<最初の「おそれ」>=黒い魚
『本当は、お庸を愛していたんだ!幼い頃から、ずっと!』
その瞬間
ドギュン!右目を鋭い痛みが貫く
偽りの記憶に覆い隠された「真実を見つめる心」が
お庸への畏れと結びつき モノノ怪と化した。
男は、真実も、それを見つめる心も<舟>に押し込め、フタをして、流した。そして忘れてしまった。
「…ずっと、見ていたのだな」
己の心はずっと「見ていた」。真実を見つめる心は、記憶を偽る自分を責めた。
男は、己の心を怖れた。
───これが<二つめの「おそれ」>=巨大イカの影
「縁もゆかりもない富士の山に入り、修行の日々を送った。
私の修行の激しさを人々は敬った…」
たしかに島の近くには居れんわな。生きてたことがバレたら大変だ。妹もいなくなっちゃったし。
それでも、彼は仏の道、僧侶であり続けることからは退かなかった。罪悪感も、異端も、「己の意気地のなさ、情けなさ」も、すべて持ちつづけた。ネガティヴな心情をバネにがんばり、ポジティヴなアクションに変えて生きてきた。そして悔いを改め、恐れを克服した。
50年という時の流れには様々な出来事もあったろうが、おおむねまっとうな仏の道を歩んで来たとみえる。お庸の無邪気さも気高さも、ずっとよく理解するようになっただろう。
だが、アヤカシの海の噂を耳にした源慧は、祟りをお庸の怨みと信じ込んだ。そんな風に考えたのは、彼女の申し出に内心ほっとして応じた己の本心を憶えていて、うしろめたい思いが常にあったからだ。
なぜ、心を偽ったのか。
己の醜い心と向き合い続けることは辛すぎた。ワンクッション置かねばやっていけなかった。
しかし、それでもなお彼は<舟>に詰めたものを思い出せなかった。自分が何を本当に恐れていたのかを。
「おそれがおそれを呼び、いつしか人が得心できぬほどの強大な影となって…」
イカは魚を喰らった…
「…貴方と身を分かち、海を彷徨っていた」
探していたのかもしれない。海へ流してしまった人を。
「源慧殿に問う!
モノノ怪を斬るということは、源慧殿の心を斬ること
二つにわかたれた心をひとつとし、
貴方が最初から無かったものとしたかたった貴方の本心を
心へ戻すことになる
それでもよいかと、問う!」
恐怖の根源を心へ戻すという、海座頭もかくやの問いに、源慧は答える。
「正直、私はお庸のことが好きかどうかも分からなかった…」
なぜ偽ったかはわかった。
しかし、醜い心の言い訳に、恋バナを当てたのは、なぜだろう?
「好きかどうかもわからない」人を、
「道に背いて一緒になる夢を見る」ほど愛していた
などという事にしてしまったのは、なぜ?
どうせ偽るのだったら、もっと自身に都合よいゴマカシ方はあったはずだ。
ところが源慧は、醜い自分をひとつも捨てなかった。
罪悪感も、異端も、「己の意気地のなさ、情けなさ」も。
妹を愛した記憶、愛する妹を失った悲しみ、その妹を死なせた自分の罪の記憶も。
捨てなかった。忘れなかった。では、彼は何を捨てたのか。何を忘れたのか。
己の意識の下の「真実を見つめる心」は結局ゴマカシを許さなかった。だから<右目>はモノノ怪と化した。このゴマカシが他の方法よりも心をらくにしてれたわけではなかった。
だとしたら、なぜ?───私はここがわからなかった。この先も、わかるかどうか。
「こんなくだらない人間の私にも、ただ一つだけ分かったことは…」
源慧の台詞が、すべてを物語る。
「…愛される、喜び」
愛された喜びが、真実を覆い隠した。愛された喜びが、偽りを引き起こした。
己の醜さも、お庸への畏れも、すべて愛されたがゆえに知ったこと。
お庸の気高さとか、解脱とかは、すべて後から理解したこと。
愛された喜びが、モノノ怪となった。
「最初から無かったものとしたかった」本心とは、お庸を全く愛していなかったという事実、だった。
それほど嬉しかった。
男は、女の愛で、すべてを塗り替えてしまったのだ。
「そうだったのか!私はそれを50年もの間怖れ続けていたというのか…!!」
バカバカしいほど単純な源慧。ちゃんと反省したのだから、忘れてしまってもよさそうなのに、己の選んだ道ゆえに、結局は自分を追いつめた源慧。
苦労して記憶を捏造しても、異端の愛の側面がぬぐえないでは、仏の道にもとるし、結局はモノノ怪を飼うはめになったのに、ちっとも眼中にない。バカだ。
しかし、ムラ社会の中でたった二人の兄妹の境遇を思うと、魂の孤独が垣間見えて、切ない。
「ずいぶん時間がかかってしまったな…」
まったくだ。
愛に異端もクソもない。きっと、こんな兄だから。
* * *
ここまでくると、あとは映像を楽しむだけだ。
ハイパー薬売りの戦闘シーンは舞台劇みたいだ。下方からぬっと出てくる(笑)ハイパーが立つ瞬間に足音のSEが入っていたり、下から手鏡を握った薬売りの手が伸びて、上から受け取ったり。(どんでん返しというんだっけ?)
手鏡を渡す瞬間だけ背景が「青」に替わったり、それをハイパーが一瞬で握りつぶしたりと映像ならではの演出も雰囲気にぴたり合い、何ともエロ妖しくていい。
鏡を「青の世界」への“門”に見立て、退魔の剣がモノノ怪の領分を<目玉>めがけて自発的に飛んでゆく。あれを見ていると、大正化猫ラストの「剣があり、剣をつかむ手がある」を思い出し、加世の言った
「この剣って、命をもってるの?」
と併せて、ああやっぱり斬りたい衝動の根源はコイツだな〜と思う。
モノノ怪を“斬り”、アヤカシが“解き放たれ”、
真(芯)がなく空洞の<虚ろ舟>の、かたちが崩れ、お庸(がくれた心)のかたちに“戻る”
そして“一つに”
<壁>の中を角砂糖が融けるように崩れてゆく<虚ろ舟>のシルエットから、源慧が再び眼をひらく瞬間まで、片時も眼が放せない。
しかし源慧が若返って生き返るのはやりすぎだ。いいたいことはわかる(ような気がする笑)が。
兄を呼ぶお庸の声に、応える源慧。
ソレが見たかった。見たいものを見せてくれるのは感無量だ。自分も矛盾しているなぁ。
『誰か』が薬売りを連れて来なかったら、源慧はやっぱり海に入滅していただろう。もしかしたら、愛する人を再び死にむかわせないため、誰かが薬売りを連れて来させたのかもしれない。
たとえば、お庸とか。
で…。こじつけ好き、アヤカシマニアの自分としては、やはり<虚ろ舟>も実在?のアヤカシだと思う。
源慧はじめ、人々の祈りを乗せて、海に流された虚ろ舟。
本物がとっくに朽ちてなくなってからも、心に残る姿へ向けて延々と投影されつづけた情念は、アヤカシの潮流をずっと漂い続けていた…。
<海座頭>のいぢわるパワーで、今回初めて目に見える形をとりました。が情念はとっくに海の上でアヤカシ<虚ろ舟>になっていた。
そして「真実を見つめる心」が(源慧の中から追い出され)、見つめる<右目>というかなりアヤカシな情念となって「身をわかち、海をさまよっていた」。
この<右目>が<虚ろ舟>と結びつき、最終形態、モノノ怪<海坊主>に。
ふたつのアヤカシから成り立っていたので、ふたつのアヤカシの「形」が来た、と。
<海坊主>としての「形」は、ふたつのアヤカシが源慧の精神の内側(いうなれば右目の中)で結びついて出来るモノノ怪なので、源慧の精神としての「青の世界」に顕れ、「現実」に影を落とした、と。
周囲をびびらす程のパワーは、合体して<海坊主>になって身につけたのか、海のアヤカシを集めたのか、まぁとにかく<右目>主導のパワーなんだろう。
虚ろ舟の外観だけが実体化し、中身が何も無かったのは、かたちそのものが、情念の化身だから。
(中身については源慧忘れてる、というかなにも考えてないし)
そして最後に、源慧がやっと畏れを解いたので<虚ろ舟>のかたちは不要となり、「お庸」のかたちで彼の中に。
もともと彼のものだった(<右目>となってさまよう)良心を取り戻し、偽りを認め本音を受け入れただけでなく、本物の「解脱の精神」を新たに会得し───あの外見に至る、と。
でも<虚ろ舟>はハリボテじゃなかったっけ?
そう、だけど、<海座頭>が源慧の恐怖を「あくまでも忠実に」コピーしたため、モノノ怪が斬られて、アヤカシが辿る運命も、そのままなぞるというわけ。
あるいは、人間をどーしても怖がらせたい<海座頭>が本物を出した、のかも…。佐々木が驚いたみたいに、突然新品に戻ったり、勝手にフタが閉まってみせたしね。しかし、そうなると、<海座頭>アンタってやつは…。
<海座頭>が実のところ、何しに来たのかは…「アヤカシの道理は人にはわからぬ」
独立した怨念体(笑)なのだろうが、<虚ろ舟>の実体化などみると、まさかコイツ親切心で出てきたんじゃ?と思える。
多分、強力わかもとの印象が強すぎるんだろう。最初の予定だったらしい「はやみ源慧、なかお海座頭」で吹き変えると、バランスがとれるのかもしれない。
ま、一連の問答は「恐怖」「欲望」「タブー」といった物語のテーマと、他の乗客との関係性を「とてもキモ楽しく」明らかにしてくれたからいいや。
<虚ろ舟>が実体化したのは何故だっけ?
じつは実体とも限らない。ほかの人にも「見えた」だけ。つまり「視覚化」
心の奥深く隠され、当人すら全くアクセスできない情報───持っている当人が意識できないほど、完璧に、無意識の底に埋もれた記憶、感情、「恐怖」を、無理やり見せるには?
当人の心の目は、それを全く見ようとしないわけで。
「ならば、おのが残ったその目でじかに見るがいい〜〜」
源慧は右目は見えない(かもしれない)が、左目はちゃんと見える。
というわけで、精神ではなく物理光を反射するシロモノにしたわけです。
「視覚に訴える作品をめざしてみましたby<海座頭>」ちゃんちゃん
菖源が言いかける、「源慧さまの右目は、もともと…」
「疾患」を抱えていたのだろうか?多分そうなんだろうな。。。わかんね。。。
「モノノ怪は人をやまいのように祟る」
の「やまい」は「疾」の字がハマるように思う。
<右目>はRight、正義。道理。論理。「理」。
「理」は男性性のありさま。条理として情を伴う理性。
男は「理」でスパイラルだ。源慧の「理」が、時間的経過を伴うのもうなずける。
女は「真」でループする。それはまた次のお話。
<右目>は源慧の良心といっていいのに、切り離されてモノノ怪になってしまって、怨念みたいに源慧を苦しめ続けた…他のアヤカシを集めて、海に祟りをもたらすまでになって…。そうだここもわかりづらかった。良心なのに、悪心でもあるんだから。ゲドと「影」、シシ神様と首無しのデイダラボッチの関係にも似て、可愛さ余って憎さ百倍…あ違うか。
ところで、今回、退魔の剣は2回しか鳴っていない。
たぶん、
「おそれがおそれを〜」=理
「身を分かち〜」=真
で、薬売りがセリフひとつにまとめて口上したんで、はしょったんだろう(笑)
「真は、貴方だ」
理も、貴方です。
のっぺらぼうに比肩する、究極の独りループモノノ怪。
これは、めんどくさいはず。
いや、ループじゃない、スパイラル。のっぺらは女性性だが、こちらは男性性、ならではの、めんどくささ。いやはや、これもってまさしく『らっきょう』 ☆
あ、ラストで鳴ってる?佐々木用か?
物語が佐々木のシーンで終わるので、解釈も佐々木で締めくくってみます。
女性性を強調した外見は、スパイラルは断つがループに陥る悪循環をあらわす(本当か?)
佐々木兵衛が、亡者の幻影に怯えながら辻斬りを続けた理由は、本人がどうやら殺人嗜好だったという以外には、何も明かされない。
船が江戸の港へ着くまでに、薬売りの前で再びモノノ怪の真と理が語られたのだろうか。しかし源慧の、海の広がりを持つ情念に比べると、佐々木のそれは干潟のゴカイの穴でも覗くような、狭い小さい昏がりのような気がする。
お庸の幻に魅入られていた姿が印象的だ。まるで、折れた剣が人の姿をまとって顕れた、とでも思い込んでいるかのようだった。
だからこんな連想が。
「今まで、ありがとう…本当は、どれほどかけがえのない剣だったか!」
『本当は、お庸を愛していたんだ!幼い頃から、ずっと!』
その瞬間
ドギュン!右目を鋭い痛みが貫く
偽りの記憶に覆い隠された「真実を見つめる心」が
剣への畏れと結びつき モノノ怪と化した。そして
お庸への畏れと結びつき モノノ怪と化した。そして
「絶対…忘れないよ!」
『お庸…50年もの間、お前のことを忘れた時は ひとときも無かった』
…こんなかな、と。源慧との比較で、考えてました。
すみません、本当はコノ人のこと、なにも考えてませんでした。<海座頭>以上に…。
初めて「海坊主」を観た時の印象は、あまり思い出せない。先にリンゴver.のMADを見てしまったからだ。幸か不幸か同じ理由で、「坂井化猫」の初見印象というのも無い。
この文を書きはじめても、目新しいアイデアやトリビアがあるわけでもなく、脇キャラに思い入れもないままひたすら粗筋を『手繰る』日々。解釈こそ我が(サイト的)生業。
源慧をアヤカシの海へいざなった背景に、如何なる運命があったのか。
モノノ怪となるほど強い情念とは何だったのか。
お庸の怨念でも絡んでいないと、源慧の苦悩ってインパクトに欠ける。
フツーに悩んで、フツーに改心して、50年経っちゃって今さらだけどやっぱり供養に来たよ、お庸よ長くかかったなぁごめんよ、でいいじゃん?(無論、それじゃおハナシにならんのだが…)
このバカ兄貴、モノノ怪になる必要がぜんぜん無い。
じゃ、単に自責の念が強すぎただけなのか?
うーむ。
うーむ。私はお庸に少しは恨んでほしかった(笑)。しかしてそこはとりあえず、解釈から除外せねばならない。
お庸が兄に微塵も怨みを遺してないなら。
モノノ怪と化した情念が源慧のカンチガイしていたような、彼女の怨みでも嘆きでも憎しみでもないとしたら。
それが愛情、なのか。
今はキャラにも馴染んだ。シナリオに縛られながらも、個々忘れ難い印象を刻むほど彼らはストーリーの中で「生きて」いた。
掴みたいものも掴めた。気がする。でもまだよくわからない。
男性と女性。永遠の二極。生命のループを紡ぐ。
写し鏡のような関係が、社会を形作り、力関係のスパイラルが生まれた。
でもストーリーと関係なくね?笑
本当はもっとフェミニズム寄りのキツイ解釈になるはずであった。しかして心の何ものかが、解をもちっと愛あるものにあらためよと忠言しやがった。
それもお庸だった、のか。私も解脱には程遠い。
そんなもの、想像もつきません。「〜を知るのが怖い」と回りくどく言うんで、こりゃ演出だ逆問答だと思ったが、次のシーンで考えはぜんぶ吹っ飛んだ。
薬売りが…消える!
ファンにとって、これほど怖いものはない。
自分はあのシーンに「ファンにとって一番怖いもの」を見せられたような気がしましたよはい。
「形も真も理もない世界」は、「モノノ怪」がない世界ってことだしね。あな恐ろしや。